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ピエール・ジャネの人と生涯

ピエール・ジャネ(Pierre Janet, 1859-1947)

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Wikipediaより)

 ジャネは、20世紀前半におけるフランス精神病理学界および心理学界の頂点に立つ巨匠であった。ジャネの晩年の思想は、サルトルやツットをとおして見直されている。

ジャネは1859年、当時のヨーロッパの中心の地であるパリ六区マダム街に生まれた。フロイトに3年遅れての誕生である。

父は勤勉な法律家、母は活発で愛情豊かなアルザス生まれの女性であった。しかし精神病理学者としてのジャネの生涯にもっとも大きな影響を与えたのは、父母よりも、むしろ父の弟ポール・ジャネであった。エコール・ノルマール・シュペリュールに入学し、古典と哲学のコースに、医学研究を加えることを勧められ、それが精神病理学研究の契機となった。

ジャネの精神病理学の特徴は、宗教的神秘体験、苦悩、絶望、洸惚(エクスタシー)といった深い人間感情についての関心と、このような人間事象さえもできるだけ科学的にみていこうという情熱のふたつに要約できる。

ジャネの『心理学的自叙伝』の一節を紹介する。
「わたしは子供のころから、自然科学に対してかなり強い興味をもっていた。だがわたしの内部には、もう一つの強い、しかも決して満足させられない傾向があった。この傾向は今日、形を変えてしまったので、人びとには解らないであろう。わたしは18歳まで、非常に宗教的であった。わたしはこの傾向を隠してはいたが、神秘的な素質を保存してきた。わたしは、科学的興味と宗教約感情とを調和させなければならなかった。しかしこのことは容易ではなかった。わたしはライプニッツのように、科学と宗教の調和を夢みた。この綜合は、理性と信仰とを満足させる完全な哲学によってなされねばならなかった。わたしはこの理想を発見しなかったが、それでもわたしは、哲学者であることを止めなかった。ともかく科学研究への関心は、叔父ポール・ジャネの模範によって強められた。彼はコレージュ・ド・フランスに、実験心理学の講座を設けさせることに成功し、またわたしをパリ医学校に登録させた。クザン学派の哲学者たち、メーヌ・ド・ビランやジュフルワは、哲学から出発した心理学をすでに準備してくれていた。だから、同時に科学的で宗教的な哲学というわたしの夢は、ごく自然に心理学へと向かわせた。そしてこの心理学は、期待していた形而上学からはほど遠いところに到らなければならなかったのである。こうしてわたしは、自分自身の宗教的傾向と自然科学的興味とを、詳細な観察、分類、および批判によって満足させることになった。このような幾多の影響を受けて、ひとりの哲学者は、心理学者になったのである。また当時22歳、哲学の教師であったわたしは、残念ながら片田合にすぎないル・アーブルでの困難な生活に在りながらも、医学と科学的心理学の研究を続けようと欲したのである」

このようにしてジャネは、エコール・ノルマール・シュペリュールを卒業して、ル・アーブルの中学の哲学の教師を1883年から1890年まで7年間勤めた。ここで彼は、精神科医のジベールたちと知り合い、医学の研究を続けるかたわら、幻覚患者やヒステリー患者を観察し、また当時流行していた催眠術をも実施した。有名な症例レオニーに対して行った催眠術の経験は、彼の最初の著作『精神自動症」の考えの契機となった。ジャネは、この論文によって哲学の学位を得、そののちこの著書は10版を重ねた。

『精神自動症』を出版した翌年、ジャネはパリの中学校で哲学を教えるかたわら、サルペトリエールのシャルコーの下で精神医学研究をつづけた。彼はここでシャルコーの講義をきき、また催眠術を施行してヒステリー患者の症状を出没させる実験をつぶさに観察しながら、同時にサン・アントワンヌ病院の一室で自分の患者を診療した。まもなくジャネは、サルペトリエールの臨床部門に属する実験心理学研究室の主任になり、サルペトリエール病院の患者をじかに診療するようになった。

1893年は、恩師のシャルコーが亡くなったが、ジャネは「ヒステリー患者の精神状態」と題する論文を提出した。この論文はのちに『サルペトリエール心理学研究室業績集』に収められ、今日も重要な文献として残されている。

1892年、ジャネは、初代のコレージュ・ド・フランスの教授リポーの後任となり、実験心理学および比較心理学の専任教授となった。彼はこののちは、もっぱら精神医学的臨床、コレージュ・ド・フランスにおける40年以上にわたる講義、および心理学雑誌(1905年以降)の監修という3つの仕事を続けた。彼は1947年に、急性肺炎のために88歳の生涯を終わるのであるが、その死の数ヶ月前、スイスに招かれて、数回の講演を行った。このときの模様を、フルキエは、つぎのように記している。

「かれの死の数ヶ月前、87歳の年齢にもかかわらず、明せきで活動的なかれは、しかもいささかも一学派の巨頭といった様子を示すことなく、またその名に価するほどドグマティックでもなかった。しかし、まさしくかれの問題理解の幅の広さと精神の開放性のゆえに、かれは、はるかに広い範囲に影響力を及ぼした。」

 

(萩野恒一:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)