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アドルフ・マイヤーの生涯

アドルフ・マイヤー(Adolf Meyer, 1866-1950)

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(100 Influenced Peopleより)

 

アドルフ・マイヤーは、1866年、スイスのチューリヒから数マイルの近郊にあるニーダーヴェーニンゲンで生まれた。父は牧師で、叔父が医師であった。

マイヤーは、チューリヒ大学に入学して、医学を勉強するが、この際に、恩師となるアウグスト・フォレルとの出会いがあった。フォレルは1872年からブルクヘルツリの院長であり、その業績は、脳解剖学から、催眠療法、アルコール症、性科学と幅広い分野であった。マイヤーは、フォレルの影響で脳病理や神経学を学び、爬虫類の前頭葉に関する学位論文を仕上げた。

大学を卒業後英国滞在中に、神経科医のジャクソンや生物学者ハクスリーから大きな影響を受けた。また、パリへ留学しデジェリーヌに師事した。デジェリーヌは神経学の業績のほかに、神経症者に対する隔離療法を開発したり、フロイトとは無関係に、疾患が起きる場合の情動が果す意味について、フロイトと似たような見解を持っていた。

1892年にアメリカに渡り、シカゴで神経科医として開業したのち、翌年になって、イリノイ州立東部精神病院に、神経病理の専門家として1895年まで勤め、病院の職員には熱心に専門の神経解剖学や神経病理学を講義した。また、患者と接するなかで、生活史の詳しい、忠実な記録が、患者を理解し、治療を進める上でいかに必要であるかを知ることができた。マイヤーは、解剖や神経病理の講義ばかりでなく、「神経科医や精神科医のための人間研究の方法」についての講座を設けた。

1895マサチューセッツ州立精神病院の主任病理学者、1902年には、ニューヨーク州立病院の病理学研究所の所長なる。

1904年から1909年までは、コーネル大学医学部の精神科教授に就任した。彼は神経病理学との関係を断ち切ったわけではないが、現実の生きた患者との触れ合いを通じて精神医学者に変貌したマイヤーの臨床への興味と関心は、その後ますます確かなものになり神経病理学者から精神病理学者になっていった理由は、精神障害の病理は、生きた人間の中にしか発見できないと感じたからである。マイヤーは市内で最初の精神科外来クリニックをコーネル大学に創立し、彼が所長として勤めた病理学研究所の名称を、ニューヨーク州立精神医学研究所と改称させた。また、ウスターの州立病院を、精神障害者の治療や、精神科医の訓練のための一大センターに変容させた。

1902年に彼はメリー・ボッター・ブルックスと結婚した。彼女は、夫の患家を訪問して、それぞれの病者の背後に存在するもろもろの事情や、家庭環境などについて調査したり、社会復帰の妨げになるような環境を改善することに尽力した。彼女のこのような献身的な活動は、専門家が州の公的な医療サービスの一員として動員されるようになるまで、継続して行われ「アメリカ最初のソーシャル・ワーカー」と呼ばれているの。夫人の活躍の背後には、精神障害者を理解するためには患者の社会的環境を知ることが不可欠であるという、マイヤーの信念が大きな支えとして、また原動力として作用したことであろう。

精神障害を引き起こす源泉としての家庭や地域社会におけるいろいろな問題を、社会的な文脈の中でより幅広くとらえ、患者の混乱状態を、脳病理の結果というよりもむしろ、その全人格の不適応となすべきだという彼の考えは、日がたつにつれて強固なものになっていった。こうしてマイヤーは、神障害を特異的な疾患単位であるとみなした1896年のクレベリンの疾病分類学に対して確固とした反対の立場をとり、アメリカ精神医学に大きな影響を与えた。

1907年には、クリフォード・ビアスとの出合いがある。ビアスはエール大学出身のエリートであったが、重い精神変調を経験し、3つの精神病院で治療を受けた。そのときに味わった苦しみや、当時の精神病院内部の陰惨な雰囲気や治療、息者に対する非人道的な取り扱いについて著したのが、有名な『わが魂に会うまで』(1908年)という一書である。このとき、この本の原稿を携え、精神病院改革のための組織をつくりたいという熱心なビアスの訴えに対し、マイヤーは専門家の立場からの力強い支援を約束し、発病の予防を目的とした組織をつくり上げることにも努力を惜しまなかった。このような組織づくりに「精神衛生運動」という名称を与え、今日でいう社会精神医学ないしは地域精神医学的な領域でも、彼は強い熱意をもって先駆者としての役割を果した。

1910年からポルチモアのジョンズ・ホプキンズ大学医学部に新設された精神科の教授として招聘され、同時にヘンリー・フィプス精神病院の院長として勤めた。この時期のマイヤーは、大学における研究、学生の教育や訓練、あるいは臨床面での指導、病院長としては、実際の病院の運営や管理、これに加えて地域精神医療の推進などの広い領域を含んでいた。このような彼の寸時を惜しむ活動と努力の結果、精神医学ははじめて、近代医学と本格的に密接な関係を結ぶことができるようになった。また、大学における研究の水準が質量ともに向上し、精神病院が近代的に整備されて大学付属病院として地域に開かれた病院としての機能が果せるような程度にまで改革された。

彼の門下からは多くの人材が生まれ、各大学の教授職を占めることになった。精神医学・児童精神医学・公衆衛生的な精神医学の教科書が、彼らによって公刊され、過去半世紀におけるもっとも重要な研究の中のいくつかが、やはり彼らによって行われた。

マイヤーは、ジョンズ・ホプキンズ大学を1941年に定年で辞してから9年目の1950年3月17日、天寿を全うして84歳で没した。その死を悼んで発表された、ディートヘルムの記事は印象的である。「マイヤーが最後まで住んでいたボルチモアの白い私邸には、長年にわたって内外の各界の知識人が訪れ、あらゆる種類の書籍が天井までつかえている書斎や居間やガラス張りのベランダでの会話、議論、それに歌や音楽に花が咲いた。医学部の一年生はいつもこの私宅に招待されるのがならわしになっており、完全に理解できるとまではいかなかったにせよ、師の英知や教師としての深い誠実さを認めて彼を愛し、尊敬した」 この文章によって、我々は生前のマイヤーと彼をとり巻く世界を生き生きと感知できるし、またその影響力の偉大さにあらためて思いをいたすのである。

 

(近藤喬一:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)