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ユングの略伝

ユング略伝

  • カール・グスタフユングはスイスのツルガウ州ケスヴィルというボーデン湖畔の小村に、1875年に生まれ、チューリヒ湖畔キュスナハトの自宅で、1961年、86歳の生涯を閉じた。
  • 彼が生まれた時、フロイトは19歳、ジャネは16歳、そしてアードラーは5歳であり、ユングはかくして新しい力動精神医学の偉大な先駆者たちの中では最も若く、かつ彼らの誰よりも長生きしたことになる。
  • ユングの父はしがない田舎牧師であり、知的には未熟で、一般には穏当で謙虚で親切な心の持主であったらしいが、ユングとはよく衝突し、お互いに和解しあえなかったという。母は太っていて醜く、権威主義で傲慢な人であったらしく、ユング自身は彼女のことを何か気難しい性格の人として、また二重人格者として述べている。時として彼女は超心理的能力を示す点で非常に敏感であり、またある時はありふれた平凡な女性であったともいう。
  • このことは大変重要で、エレンバーガーの指摘する「フロイトは若く美しい母の最愛の長男であったが、一方ユングはかくの如き二重人格の母のイメージをもったため、母を愛し父を嫉妬するという少年の考えは、彼にとっては奇妙に思われた」との意見はうなずける。すなわち、フロイトエディプス・コンプレックスの概念は彼の生活史から帰納することができるというわけであろう。
  • フロイトユングに対する態度も「父親を押しのけて分析の王座をのっ取ろうとする息子」と見たであろうこと、ユングの方からは「どれだけ議論しても和解できない父親」としてフロイトを見ていたのではないか、だからこそユングは親から独立して、独自の道を歩むことになったのであろう。
  • 1900年パーゼル大学で医学を修めたあと、彼はチューリヒ郊外の州立ブルクヘルツリ精神病院の助手となった。そこには有名なオイゲン・プロイラーがいて、その指導をうけている。彼の下にはやはり有名なビンスワンガーがおり、彼はユングの指導でその学位論文を完成している。
  • 1902年、パリのサルペトリェールでジャネの講義を受けているが、何にも増して彼を啓発したのはフロイトの『夢解釈』であり、これは彼が臨床上で得た経験と最も合致するものであり、プロイラーの症状とか診断に対する学問的興味より以上のものがあった。
  • 1904年彼自身の創案になる「言語連想試験」で論文を発表し、これが認められて翌年チューリヒ大学の講師となり、教壇に立つ一方、ブルクヘルツリの医局長をも務めた
  • 1907年2月、はじめてフロイトに会い大きな感銘を受け、以後急速に二人の仲は親密になる。
  • 1909年にはフロイトと共に合衆国のクラーク大学に招待されて講演を行っており、翌年にはチューリヒ大学で「精神分析入門」の講義をはじめている。
  • 1911年、フロイトの推薦で国際精神分析協会の初代会長となり、『精神分析学中央誌』の編集主幹となって、外的には押しも押されもせぬフロイトの後継者とみなされたが、彼自身はフロイトヘの尊敬の念はもちつつも、フロイトの考える「無意識」の内容、ことに性理論のみで考えていくことにはどうしても異論を持ち、「無意識」にはそればかりでなく、もっと広汎な人類に普遍的なものもあり、ときにはそれらの中に積極的な創造的なものも含まれるという考えがあった(これは後に普遍的無意識として結晶化する)。1912年の論文『リビドーの変遷と象徴』はこの考えを納めたもので、これにより1913年にはフロイトと袂を分かつこととなった。
  • この年、大学講師の職も辞した彼は、もっぱら自らの研究に没頭していった。グノーシス派の研究や、錬金術の研究を通して、1920年には『人間のタイプ』、1930年にはリヒャルト・ヴィルヘルムとの共著『黄金の花の秘密』を出版した。その間、1920年には北アフリカチュニス1924年~25年、アメリカのアリゾナニューメキシコを訪れ、プエブロ・インディアンを観察して大きなヒントを得て、未開人の心性と分裂病者の臨床から得た知見とから人間の心の根源にある元型の理論へと発展する。
  • 1923年1月、母の死のあと、チューリヒ湖に続くオーベル湖の北岸ボーリンゲンの地に最初の塔を建て、以後4年おきに、12年かかって独力で別荘を建て、瞑想の場とした。さらに1955年、妻エンマ・ユングの死後、中央の棟に2階を増築して、彼の「塔」は完成する。このユングの内的発展と共に建て増されていったボーリンゲンの別荘は、彼自身の理論の究極的な到達点である「個性化の過程」そのものを象徴的に表わすものと考えられ、記念すべき不朽のモニュメントである。
  • ユングはその『自伝』においては、外的な栄誉などについて殆んどふれていないし、それを読む限りにおいては、夢とヴィジョンの世界での出来事があまりにすさまじいために、もっぱら内的世界ばかりを探求して殆んど外的世界とは関わりがなかったかのような印象を受けるが、事実はそうではなかった。
  • 1930年、55歳の時には、ドイツ精神療法学会の名誉会長に推され、33年には国際精神療法学会の総会議長を務めており、1932年にはチューリヒ文学賞を受け、翌年からスイス工科大学で連続講演を始め、35年同大学名誉教授になり、チューリヒにおけるスイス応用心理学会の会長になっているし、1938年オックスフォード大学から理学博士号を受けるなど幾多の名誉学位を贈られている。69歳の時、故郷バーゼル大学の医学心理学の教授になったが、この職は心筋硬塞と足の骨折などの病いのため辞任せざるを得なかったが、1945年、70歳のときにはジェネープ大学より、1955年、80歳の時にはチューリヒ大学より、名誉学位を授けられ、スイスの生んだ最も名誉ある学者としての不動の地位を手中にしており、文字通り「キュスナハトの老賢者」としてこの世に存存したと言える。
  • 彼は1948年、チューリヒに自ら創始した分析心理学を探求するユング研究所を設立しており、彼は生涯に30余冊の著書と、120余編の論文を世に問い、これらを編纂した彼の全集はチューリヒのラッシャー社(途中からワルター社)からドイツ語版が、プリンストンのポーリングン財団より、英語版が各18巻宛発行され、他にルートリッヂ・ケーガン・ポール社から19巻の英語版が刊行されている。
  • 我国への翻訳紹介は昭和6(1921)年、春秋社の「世界大思想全集」の第44巻として、中村古峡の訳で『生命力の発展』が訳出されているが、これはユングにとって最も重要な論文『リピドーの変遷と象徴』(1912)であった。昭和30年に日本教文社より5巻の選集が出たあと、昭和42年河合隼雄教授の『ユング心理学入門』(培風館)という、真に適切な入門書が出されて以後、急速にユング関係の書物が増え、中でもアニエラ・ヤッフェの編になる『ユング自伝』(みすず書房)、ユング唯一の一般向け書籍『人間と象徴』(河出書房新社)が出版されている。

 

(山中康裕:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)