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北総メンタルクリニック 院長の情報発信

ユングの神経症理論

ユング神経症理論

  • ユング神経症理論は神経症が一般に劣等なもの低格なものとされる傾向があるのに対して、そのポジティプな側面を指摘し、人格の完成へと向う目的性を見出す。
  • 彼は「神経症は常に、正当な苦悩の代用物にすぎない」とも言い、神経症そのものは非本来的苦悩であり、これを意識化し本来的な苦悩に移しかえることによって、神経症のポジティブな意味が見出される。
  • ユングは「神経症の症状は、それが幼児期性欲であれ、幼児期の力への衝動であれ、単にはるか過去の原因の結果であるばかりでなく、人生の新たな結合を目指す試み-たとえこの試みが次々と不成功に終ろうとも-それにも拘らず、価値があり、意味ある核をもった試みでもある」という。
  • すなわち、一方で神経症にはフロイトが説いた性理論で了解・治療されうるものもあれば、他方アードラーの説いた力への意志理論で了解・治療されうるものがあることを認め、さらに他の神経症の発症の基盤なり意味なりが存することを説く。
  • 彼はとくに、「何故神経症が今ここで発症したか」を問うのである。フロィトの言うように神経症の原因がすべて過去の体験に基づくものであるのなら、何故神経症が今起こらねばならないのかが説明できない。もっとずっと以前にも起こってよいはずであろう。その点アードラーの考えは、現在の時点でのたとえば家族内での力関係を変更しようとする目的的な思考方式を提供して、ユングの考えへの橋渡しをしているとも考えられる。ユングはここにおいて二つの独創的な考えを提出した。 一つは「タイプ理論」であり、他は「心の補償理論」である。

 

  • タイプ理論
    • 「何故フロイト神経症を性釣外傷理論で説明し、アードラーは権力意志理論で説明しようとしたのか」。
    • フロイトは周囲の環境や人々とのかかわりに関心を向ける《外向型》の人間であったために、彼の理論は、周囲とのかかわり、とりわけ幼児期の両親とのかかわりに中心をおいたのである。
    • アードラーは自らの内的な心の動きに関心を向ける《内向型》の人間であったために、自らの心のうちに潜む「力への意志」ないしはその裏返しの「劣等感」に目を向けたのである。
    • ユング自身は《内向型》の人間であったが、彼自身12歳の時に失神発作と現在でいう登校拒否に似た神経症を体験しており、その際、神経症とはどんなものであるかを直観的に感じとって、それが次の理論につながる。

 

  • 心の補償理論
    • 彼は心の構造を、意識と無意識からなる一つの全体的なものと考え、その機能に、「思考-感情」「直観-感覚」という対立する四つの根本機能と2つの基本軸とを考えた。先述の「外向-内向」の性格傾向とを組みあわせて16通りの性格傾向がとり出される。
    • この考えは思弁的なものではなく、実に深い臨床経験に基づいたものである。それ故、彼の神経症理論は、臨床的に患者が示した症状、彼らの性格傾向の詳細な観察からもたらされた。
    • 神経症とは患者個人の主要機能の発達が妨げられているか、あるいは素質から言えばせいぜい第二または第三の機能が前面に、つまり主要機能の位置に無理矢理押しあげられてしまっている事態において発生してくるものだと考えるのである。
    • 神経症は人生に対する一面的な姿勢を補償しようとする企てであり、いわば無視されたり抑圧されたりしている人格の一側面に注意をひきつける声なのだ」(フォーダム)とも言える。
    • 未発達の自我意識、一面的な意識的根本態度が現在の環境や状態に適応できなくなって神経症を惹き起こす。それ故、「今、ここで」神経症が発生する理由も明らかとなる。
    • それまで一方的に抑圧された側面は、多大な感情エネルギーを伴ったコンプレックスを形成し、それがこの時点で意識をおびやかし、自我の座にとってかわる。
    • 精神療法家の協力を得て、この問題にたちむかいこの神経症を克服するとき、人格の発展が起こり、それまでの一面的な生き方とは違った統一のとれた生き方を成就する。ここにユングのいう「自己実現」の発展があり、神経症のポジティプな意味があらわとなるのである。

 

(山中康裕:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)