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ユルク・ツットの経歴

ユルク・ツット(Jürg Zutt, 1893-1980)

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(SBPFEより)

 

経歴

ユルク・ツットは、1893年ドイツ、パーデン地方のカルルスルーエに、同地の高裁の弁護士を父として生まれたが、早くに両親を喪った。1911年フライブルク大学の医学部に入ったが、1914年第一次世界大戦勃発と共に砲兵隊員として召集され、終戦まで学業は中断された。1918年に復員し、再びフライブルタヘ戻り、1921年医師資格を得た。

当時のフライブルク大学精神医学の主任教授はホッヘであったが、その頃フロイトおよび他の精神分析の著書に興味を惹かれ、さらに深く学んでみたいと考え、フロイトに直接手紙を送った。これに対してフロイトは、当時ベルリンの精神分析協会会長であった、カルル・アープラハムの許を訪ねるよう勧める返事をくれた。

指示通リベルリンヘ赴いたツットを、アープラハムは快く協会へ迎え入れてくれるとともに、「もし精神分析に関心を持っているなら」、ポネファーを訪れ、彼の教室に入れてもらうよう頼んでみることを勧めた。

そこでベルリン大学の精神医学教室を訪れてみると、ポネファーも精神分析に関心の深いものの入局を大いに歓迎してくれ、結局、1937年ボネファーが退職するまで彼の許に留ることとなる。そこでツットは、ベルリン精神分析協会で客員会員として、正式の教育分析および実地の分析治療の訓練を受けるとともに、ボネファーの下でいわば伝統的なドイツ精神医学を学ぶことになった。

1922年末から2年間、チューリヒのオイゲン・プロイラーの許に留学後、再びベルリンヘ戻ったツットは、理論だけの独断論的な狭さやその精神医学の無視ぶりが納得できず、精神分析協会から疎遠になり始める。その頃のベルリン大学の精神医学教室はきわめて自由な雰囲気で、脳病理から精神病理学的症候学、精神分析、グシュタルト心理学、さらには哲学的境界問題まで論じていたという。

1929年には、後に「了解人間学」の体系を築き上げるであろう方向を示唆する、初めての本格的論文「内的態度」を発表した。すなわち、分裂病の症状を個々に記載羅列するのではなく、その現われの中に潜む根源的なものを見取っていくと、自我と内的態度との関連に障害のあることが明らかとなり、そこから、一見無関係に見える諸症状も根底において互いに関連し合っていることが分明になるであろうこと、を論じたものである。こうして1932年には教授資格を得、彼の研究はようやく独自の方向へと進み始めた。

しかし同年春、病院にもハーケンクロイツの旗が掲げられるようになり、暗い日々が訪れ始めた。5月にはフロイトの著書は焚書に付され、11月にはベルリン精神分析研究所も、所長ジンメルは投獄され、多くの所員が亡命し、事実上閉鎖となった。当時ベルリン大の助教授であったシュトラウスも同年その職を退くこととなった。因みに彼はユダヤ迫害の激しくなった1928年故国ドイツを永久に離れた。

こうした情況の中でツットは、その後、教職に留まるために賦せられてくる政治的条件を受け容れることを潔しとせず、1937年ポネファーが退官したのを機に、十数年にわたって在職した大学を去り、敗戦に至るまでペルリンの一私立病院長としてすごした。

敗戦の後、1945年大学へ戻ったツットは、ヴュルツプルグ大学の精神医学教室の主任教授となり、活発な研究活動を再開した。1948年には「思春期痩せ症の精神医学的病像」を発表、1950年フランクフルト・アム・マイン大学に移って以後、1952年の「審美的体験領域とその病的変化」の研究を皮切りに、次々と独自な研究を発表、1957年義息クーレンカムプの提唱に基づいて、その研究方向を「了解人間学」と名付け、その後もその体系を固めた。これらは、その他の論文も含め1963年、論文集『一人間学的精神医学への道』としてまとめられた。1965年フランクフルトで現職を退き、同大の名誉教授となったが、その後も数年の間は自宅で外来診療を続け、常に患者のよき相談相手として患者との接触を保ちながら、依然盛んな研究、著述を発表し続けた。

 

 

山本巌夫:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)