therapilasisのブログ

北総メンタルクリニック 院長の情報発信

ツットの了解人間学

了解人間学の緒言

 

「了解人間学」という名称は、ツットの弟子でもあり、優れた共同研究者でもあるクーレンカンプが、他のさまざまな人間学的研究方向、とくにビンスワンガーの現存在分析との混同を避けるため、ツットと自己の研究方向に対して自ら与えたものである。

ツットは、了解人間学は、「精神医学上の経験のひとつの人間学的基礎づけの試み」と註釈しているように、理論的考察として出発したものではなく、また台頭してきていた精神科学方面での人間学的研究法に刺激されて着想したものでもなく、長年の間、日々の診療で出会うさまざまな人々を了解しようと努めてきた結果なのである。すなわち、ここで出会う人々の示す態度や語る体験の異常さを、ただ医学的症状とだけ受け取って、記載し診断を付けるのではなく、これを了解しようとしたのである。つまり、異常さをすべて障害として了解し、その上で、その異常を通じて障害されていなかった本来のもの、変化する以前の健常であったものを洞見する、ということである。

このように、この現象の中に自らを示すものを通してその人間学的基盤を洞見する、この洞見が了解人間学の「了解」である。こうして根源的現象が医学的症状へと還元され、それが止揚される。現象はその全ての意味内容において示される。この時、精神病でないものとの交流では隠されているものが見えてきて、結果として、精神医学におけるこのような努力が人間全般を学ぶこととなるのである。これが「人間学」と名付ける所以である。

了解人間学は、病む人を前にして、状態像を云々したり、その状態像は何病であるかなどを論ずるだけではなく、この人間は、一体どうしたのか、どういうことになってきたのか、何をしたのか、何が起きたのか、を問う。そしてそれらの答えからさらに、このひとりの人間の個人的な運命とその類型的な精神障害との関連の仕方が洞察できるかどうか、を問う。ツットは、これに答えることこそが、その都度の精神病的変化の人間学的意味を了解するための前提だからである、という。

ここでもう一つの前提は、人間学は心理学ではなく、了解人間学はデカルト心身二元論をとらない。ツットは、「精神」と「肉体」は同じものの二つの見方にすぎないとし、この「心-身-統一体」を人間の根源的現象としての「身体」ととらえる。これは抽象的思考の産物ではなく、もっとも日常的なことがらから看取できるものである。

ツットは、例として、自分がここに坐って書きものをしているところへ友人が入ってくる、という場面をあげる。私に入ってくるのが見えるのは、決して「肉体的随伴諸現象」ではなく、ひとりの私の友人なのである。この、私に対して現象している身体が私の友人であることは、根源的、直観的かつ現象的に与えられているのであって、精神や肉体というものが、逆にこの根源的、現象的所与の抽象の結果なのである。ツットは了解人間学は、この、自分がここに坐っている、そこへ入って来るのは友人であるという、きわめて単純明快な日常的ことがらをこそ出発点とするのであると強調している。

 

山本巌夫:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)