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レオポルド・ソンディの経歴

レオポルド・ソンディ(Léopold Szondi,1893 – 1986)

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(sudboanalizより)

 

経歴

  • レオポルド・ソンディは、1893年、当時のハンガリー領(現チェコスロハキヤ領)のニイトラという町で生まれる。父はユダヤハンガリー人で、靴加工職人であった。彼は12人の同胞中、第12子で、かつ後妻の子であった。4歳の時、プタペストにいる異母兄にひきとられ成育した。その後1944年にナチのユダヤ追放の悲運に会うまでの47年間は、この地にあり、教育もこの地で受けたが、幼少時代からの貧困で複雑な家庭環境は、とりわけ異母兄夫婦のいさかいを見るにつけ、彼をして家族の問題に過敏にさせる素地を形成していった。
  • 1911年に高校を卒業と同時に、医科進学のための国家試験に合格。1919年ブタペスト大学医学部より学位を取得している。
  • 大戦後は、プタペスト大学のランシュブルグ教授が主宰する実験心理学研究所の助手にもなり、記憶実験や知能測定の実際を学んだ。最初の公刊論文は、この助手時代の成果である『欠陥知能』であった。
  • 1927年、プタベストの治療教育大学の精神病理学教室の講師に任ぜられ、同時に精神療法クリニックの医長も兼務し、1941年、ナチの追害による公職追放にあうまで、この地位にあった。この14年間は、ハンガリー時代における精神科医としての、もっとも充実した活動の期間でもあった。ことに精神薄弱児の治療と教育に関連しての体質学への関心は、遺伝学への興味となり、ミュンヘン大学のルーディン一派の家系研究に傾倒した。やがて無意識の遺伝学として、配偶者選択や職業選択のあり方に注目させ、ソンディをして生涯のテーマである運命分析学の臨床家たらしめることになった。
  • この興味ある学説の端緒は、彼自らが語る臨床体験として、何故若い健康な男が、彼の母親そっくりの訴えと症状を示す女を妻として選ばなければならなかったか、という「愛の出会い」にかかわる運命的な選択の病理にあった。
  • 1927年、ソンディ学説の最初の論文『運命分析への寄与-結婚の分析-』が公刊され、配偶者選択に内在する潜在的な遺伝子の趨性作用としての選択指向的な作用が、そのまま無意識を機制する衝動の実体であるという遺伝学と深層心理学を結びつけようとする大胆な主張であった。しかし当時ほとんど誰もかえりみる者はなかった。
  • 1939年、この大胆な仮説を客観的に証明するために、今日ソンディ・テストとしてひろく知られている実験衝動診断法の考察を通じ、「衝動と教育」という論文を発表した。これは97組の双生児を対象にして、彼らの衝動の選択傾向と、その選択修正の意味での教育可能性に内在する問題をとりあげたものであった。しかしこの内容は、彼本来の主張する運命学説よりも、その検証方法としてあげたテスト法の方にむしろ注目を浴び、逆にソンディをして世界的に知られる契機ともなった。
  • 1941年、第二次世界大戦の勃発は、あらゆる公職からの追放となって、ソンディの活動を頓挫させることになった。しかも1944年、ナチ・ドイツ軍のプタペスト進駐によるユダヤ人狩りの犠牲となり、強制収容所にとらわれの身となった。
  • 彼の最初の著書『運命分析学』を、この強制収容される3か月前に脱稿し、その年の秋にスイスの書店から出版させることに成功した。
  • 1946年、チューリヒの現在地に住居をかまえ、精神分析家として開業、この転居前に脱稿した『実験衝動診断法』初版は、翌年の1947年早々に公刊を見、同時にテスト用具(48枚の顔写真)も市販されることになり、ソンディをして一躍、世界の寵児に仕立てた。またこの事実は、テストの背景となった運命分析理論にも注目をあびるようになり、1948年、『運命分析学』第2版の公刊をみた。無意識の遺伝学に対する批判的な注目に対する反論のための改訂増補であった。
  • 実験衝動診断法の広範な注目に力づけられたソンディは、その臨床診断学的応用に改めて精力を傾け、1952年には、大著、『衝動病理学第1巻』の公刊を見た。また、この年に私設のソンディ研究所も開き、1953年には、彼の60歳の誕生記念も込めて、モノグラフ『ソンディアナ』第1号を発刊。同年、実験衝動研究と運命心理学のスイス研究会を組織している。次いで、1955年、スイス運命分析療法学会を創設し、自ら代表として運命分析療法の深層心理学的治療法に寄与する可能性の追求に腐心した。
  • 彼の年来の主張は、派閥的な分析治療の思想と技法の垣根をとりはらい、それぞれの学派の利点を認め合い、欠点を補償し合い、深層心理学の究極的な発展と統合を期そうとするところにあった。
  • 1955年、スイス在住の各派な分析治療家の参加を得て、継続的に開かれた「深層心理学の治療法」と題するシンポジウムは、この主張の一つのハイライトであった。また、1956年には、これらの主張の成果ともいえる『自我分析』の大著となって結実していくが、1958年には、さらに国際運命心理学会も組織され、自ら会長として第1回大会をチューリヒで開催した。
  • 1959年、念願のスイス市民権を取得し、1960年、ソンディ・テストの極端な心酔と非難に曲折した25年間の総決算ともいうべき『実験衝動診断学教科書』の公刊、テストの機能と運命分析学にしめる意義を改めて総括した。
  • 1965年には、最初の著書『運命分析学』についても、その後の批判に応える総決算の著として増補改訂版(3版)を公刊。なお、これより先、1963年には30年来の運命分析学が指向してきた深層心理学的治療法の総括編として『運命分析的治療法』の大著も公刊。
  • 1969年にベルギーのローベンで開催された第5回国際運命心理学会では、会長をローベンのカソリック大学教授、ショッツ博士にゆずり、自らは名誉会長となった。そして、この時多年の深層心理学に寄与した功績を認められ、名誉哲学博士号をローベン大学から贈られた。
  • 1970年には、チューリヒの従来の個人的研究所を発展的に解消し、財団法人ソンディ研究所を設立し、その代表となった。
  • 1969年と1973年には、悪と善の衝動病理学として、一種のてんかん学「カイン-悪の形態」、「モーゼ・カインの応答」の著をそれぞれものにしている。 
  • 1975年、パリ大学での第7回国際運命心理学会で「ドストエフスキーてんかんの問題」と題し、ヤンツ一派のテレンパッハが、ムイシキン公爵(自痴)に投影されるドストエフスキーてんかん的意義、とりわけ発作と本質変容の交叉の現象学について論述したが、それに応えて、ソンディは積極的な発言を試みていることも印象的である。
  • 1937年、プタペストで生まれた運命分析学の主張は、ソンディの波乱に満ちた人生とともに、またその波乱の道程そのままに、今日なお、あまねく彼の見解が正当に評価されたとは決していい難い状況にある。むしろ、それは批判と無視の受難の歴史であったといった方が妥当するかも知れない。
  • ソンディの人生は、彼が師としてあがめるS・フロイトの出生運命と生涯を知るにつけ、ますます酷似していることが明らかになるが、追害される民族として、また生涯にわたりアカデミックな場を秘かに希求しながら、その機会を形式的には遂に得ることがなかった。しかし、それは、深層心理学の統合と組織化への情熱となり、研究所・国際学会・専門機関紙の公刊という民間レベルでの精力的な組織化へと展開していった。また、その旺盛な著述力は、一つの研究課題をすぐれた直観的洞察力でもって、独創的な世界に形式化し、それを完結的に構成する作業に腐心させた。
  • 自ら解説するように、その主著『運命分析学』は「遺伝学」であり、『実験衝動診断法』は「診断学」、『衝動病理学』は、病理学、『自我分』は「自我心理学」、『運命分析療法』は「治療学」であると規定した中にも、ありありと彼ソンディの深層心理学へのアカデミック的指向の姿を浮きばりにしている。

 

(大塚義孝:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)