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エリクソンの幼少年期~青年期

エリク・H・エリクソン(Erik Homburger Erikson, 1902 - 1994)

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(Prabookより)

 

エリクソンの幼少年期~青年期

  • エリクソンは1902年、ドイツのフランクフルトに生まれている。1900年は、フロイトが『夢解釈』を出版した年である。エリクソンの師であり、「父」でもあったフロイトは、ここで1930年ゲーテ賞を受けた。そのフロイトの生誕100年を記念し、1956年エリクソンは招かれて、フロイトについての講演を行った。また、1967年に著わした『ガンディーの真理』で、米国のゲーテ賞に値するピュリッツァー賞を得ている。
  • 彼は私生児である。彼が生まれる前に、父は母の許を去っていた。芸術家肌の母は、エリクソンを伴って、フランクフルトからカールスルーエという小さな町に移り、彼は18歳で高校を出るまでここに住む。
  • 母はデンマーク系で、知的な芸術的関心の高い人であった。エリクソンが病気になったとき、ホーンブルガーの治療を受けるが、その小児科医はやがて母と親しくなり、2人は結婚する。つまり、エリクソンの病が母と養父の運命的な出会いを導き、エリクソンはこの父に養子として迎えられる。
  • エリクソンは自分のその後の精神的形成を、この母の結婚と自分が養子として迎えられたことにあるとみている。彼は、家族の中に自分が完全に帰属する実感を得られない感じを「養子コンプレックス」と呼んだ。
  • 養父は、忍耐強く親切であり、エリクソンが自分の後継ぎとして医者になることを願っていた。実母のもつ深い芸術、哲学、宗教への理解と資質を取り入れ、実現する方向に進むか、誠実な養父の医者への願望を取り入れていこうとするか。青年期を経るまでの長い年月、エリクソン自身、後に自我同一性の拡散と混乱として記述したものを深く体験せざるをえなかった。
  • 高等学校(ギムナジウム)で習ったギリシャ、ラテンの古典語と古典文学はエリクソンの文学的、芸術的傾性の教養となった。彼はギムナジウムを出ると、町の絵画学校に入る。18~25歳は、第一次大戦がようやく終結し、パリの講和条約問題で、ヨーロッパの政界は賑やかな外交活動をしていた時代である。エリクソンはその時期、全く思想的に方向の定まらない漂泊の若者のひとりであった。内的な無方向性、空自感は決して彼ひとりのものではなく、ある意味で時代のものでもあった。
  • エリクソンは25~28歳まで、本格的に絵を学ぶために、フランクフルトの絵画学校に籍を置く。職業的同一性を獲得しようとして努力した3年間、および終りに開いた個展は、むしろ芸術家として立ち、生きていくことの難しさを彼に知らせる結果になった。母の価値実現は完全には満たすことのできないものであった。
  • 28歳でカールスルーエに帰ったエリクソンは、一通の手紙を友人のピーター・プロースから受けとる。プロースはその頃ウィーンにいて、ドロシー・パーリンガム夫人というニューヨークの名門の出で、知的な関心が高く、精神分析を学ぼうとしていた女性の子供の家庭教師していた。彼は気に入られ他の子供達の家庭教師も頼まれ、協力者として選んだのがエリクソンであった。

 

鑪幹八郎:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)