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エリクソンにとってのフロイトと米国での活動

エリクソンにとってのフロイトと米国での活動

  • カールスルーエから呼ばれたエリクソンは、「教育」という世界に入っていく。この小さな塾で教えながら、エリクソンは周囲にすすめられて、児童分析家としての訓練を受ける。彼の個人分析家は、児童分析の分野を開拓し、研究しようとしていたフロイトの末娘であるアンナ・フロイトであった。
  • 彼は娘のアンナを通して、「神秘的なる父」(精神分析の父であり、自分の尋ねる父)を知るのである。アンナ・フロイトの分析を受けるために通ったオフィスには、娘と待合室を共有して分析を続けている父をみることができた。アンナを通して教えられていく未知で未踏の無意識の世界は、次第にエリクソンを囚にしていく。
  • この時代に彼の学んだ人々は、フロイトの他、フェーデルン、ハルトマン、シュテーケル、アイヒホルンといつた初期の精神分析のサークルの人々であった。
  • フェーデルンのセミナーの中ではじめて、「同一性」という言葉を聞き、深く経験的な次元から言葉を語るフェーデルンは魅力的な人であった。また、ハルトマンは自我心理学の基礎づくりをしつつあった。初期のエリクソンの研究もこのハルトマンの系譜の中で行われている。
  • この時期に、エリクソンは、もうひとつの運命的出会いであるジョーン・サーソンと結婚する。彼女はカナダ系の米国人で、コロンピア大学で教育学を専攻し、ペンシルバニア大学で修士をとり、モダンダンスを教えながら、ダンスの流派についての学位論文をまとめるためにウィーンに留学もしていた。高い教養と鋭い芸術的感覚の持ち主であった両者の出会いは偶然と必然とを同時にもったようなものであった。
  • 1923年にエリクソンは、ウィーン精神分析研究所で訓練を終り、正式の精神分析家として、国際精神分析学協会に名前を登録され、同年の妻と子供達とともにボストンに到着する。
  • 米国における精神分析は、1909年フロイトが招かれて米国に渡り、初めて精神分析の講演を行った。1911年には米国精神分析学協会とニューヨーク精神分析学協会が設立され、1914年にはポストン精神分析学協会が設立されている。1920年代になって、欧州からユダヤ系の精神分析家が追われて米国に移住すると、精神分析学はアドルフ・マイヤーの精神生物学と統合された形で、精神力動学として米国精神医学の主流を占めるに到るのである。
  • エリクソンは、このような時代の流れの中で、特別の技術と経験と学識をもつ者として、何らの偏見なく米国に受け容れられたのである。彼は米国で恐らくはじめての児童分析家として歓迎され、ポストン精神分析研究所や、ジャッジ・ベーカー相談所、ハーバード大学の医学部およびH・マレーの主宰する心理学クリニックなどで子供の臨床に当たり、指導し、教育していったのである。
  • 1929年エリクソンは米国市民権を得た。彼が注目したのは、米国という文化の特殊性と文化を超えた普遍的な人格発達の側面であった。
  • 1936年エール大学の人間関係学研究所に移り、ここでの3年間はエリクソンの創造性が芽生える大事な時期であり、ハーバード大学心理クリニック所長のヘンリー・マレー、ケーラー、レヴィン、デンポーらゲシュタルト心理学者たち、M・ミード、メキールその他の文化人類学者たちとの交流があった。
  • キールのすすめでアメリカン・インディアンの養育態度の研究を行い「結局、人間は皆同じだ」という実感を得ていく。エリクソンの観察は深い共感をもって、文化を超える普遍的な人間的発達の問題として『幼年期と社会』の中で記述された。
  • エリクソンは市民権を得た年に、米国西部に移る。カリフォルニア大学パークレー分校で教鞭をとる一方で児童福祉研究に参加する。ここでの研究を土台にした「内的空間論」は被験者の性的差異が遊びの構成、空間処理の仕方にみられ、思春期に入っていく男女の世界とのかかわりの心理学的意味を見出そうとした。しかし、1960年代に入って、米国の女性解放論者から、「女性性」をめぐる問題の「内的空間論」は、フロイトの女性論とともに批判される。エリクソンはその再批判としてさらに「再び内的空間論について」(1974)を書く。
  • エリクソンは、米国に渡って、児童分析の臨床、文化人類学的研究、中産階級の米国市民の子供たちについての人格発達的な組織的臨床的観察がなされ、『幼年期と社会』(1950)を仕上げるのである。

 

鑪幹八郎:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)