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シャルコーのヒステリー研究と催眠

シャルコーのヒステリー研究と催眠

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ジャン-マルタンシャルコー (Jean-Martin Charcot、1825 – 1893)

シャルコーは、多くの脊髄や脳の疾患の発見や記載によって不朽の業績を遺した近世神経学の始祖であるが、一方で、彼はそのヒステリー研究において、当時の学界と世論とに衝撃を与え、現代の精神医学の主要課題の一つである神経症の科学的研究を推進する上に大きな役目を果たした。

彼が、1862年から1892年まで、30年の長きにわたって取り組んだ神経症、なかんずくヒステリーの研究は、彼の盛名を一層高からしめたが、その反面、強力な反対をも呼んだ。そして彼の名声はそのため、少なからず傷つけられたのである。

シャルコーは、きわめて精細な観察を行ない、たとえば、ヒステリーが女性特有のものでなくて、男性にも存在することを認め、子宮に由来するヒステリーの名称を無意味なものとし、誤解を避けるため、ヒステリーに代えて、しばしば神経症という名称を講義の中で使っている。このことは当時ヒステリーと神経症とが同義語として用いられていたことを示すものでもある。

シャルコーが最大のセンセーションをまき起こしたのは、当時民間に流行していた催眠術を、ヒステリーの研究に導入したことであった。

学問的批判の対象となったのは、ヒステリー素質を持った者だけに催眠術の施行が可能であるとする学説、また彼のいわゆる「大催眠」において、ヒステリー大発作は必ず強梗期、嗜眠期、夢遊期の3つの定型的相を呈するという説であった。

ことに後者は、ベルネームを初めとするナンシー学派の激しい反論を浴びた。ベルネームらの経験によると、シャルコーの説いた相は決して現われなかった。そこで彼らは、シャルコーの観察していたものは、サルペトリエール病院の特別の雰囲気や暗示によって作り出された人工的なものだとしたのである。そしてその後の実験の結果、このナンシー派の主張が正しくて、シャルコーに誤りがあったことが明らかとなった。この点は、シャルコーの直接の門下生も認めざるを得ないところであるが、この過誤の結果は、シャルコーのヒステリー理論の大部分までが過誤であるかのような印象を後に残したのである。

ヒステリー概念についての本格的な検討が始まったのは、シャルコー門下のババンスキーによって、後年、被暗示性の亢進を主眼とするヒステリー理論が打ち立てられた後のことである。

上述したような過誤にもかかわらず、精神医学史上、シャルコーはきわめて重要な地位を占めている。それは、彼の執拗なまでの熱心さによって、初めてヒステリー症を中心とする神経症が学界の焦点となったからであり、次に、当時まだ学問の世界からは異端視されていた催眠術が、彼により、科学研究の一方法として導入されたためである。ヒステリー研究のために催眠術という精神的技巧を取り入れた事実そのものの中に、シャルコーがヒステリーの精神力動―それは、感動と暗示とを主因とする病的観念の効果という漠然としたものにすぎなかったが―を重視した憲眼を見る思いがする。

シャルコーが、自己観察を主眼とする従来の心理学に早くから不満を抱き、患者の精神内容を客観的に研究する新しい生理学的心理学の必要性を説いたことは、よく知られている事実である。彼の死んだ年(1893年)に、フロイトが彼についての思い出を語っているが、その中に次のような言葉がある。

シャルコーは、ヒステリー性神経症の説明のためには心理学に向かわなければならぬということを、われわれに教えてくれた最初の人である。ブロイアーと私とは、最初の報告において、彼の範例に従ったのである…」。

グリージンガーがその影響をウェルニッケやクレペリンに与えたように、シャルコーもまたヒステリー問題について、大きな影響と示唆とを後に遺した。ババンスキーのほか、フロイトとジャネという2人の偉大な神経症研究者が彼の門から出たことがそのよい例である。但し、この両人が終生意見を異にして激論を繰り返した仲であったことは興味深い。またシャルコーの弟子であったフロイトが、シャルコーの論敵のベルネームを訪ねたり、その著書の翻訳をしたりしていることも面白い。面白いと言えば、フロイトシャルコーの許に行ったのは、ヒステリー問題のためというより、当時、フロイトが興味をもっていた神経生理学や神経病理学の修業のためであったということだ。シャルコーは当時、この方面でも指導的立場に立っていたのである。

近代精神医学の黎明期に、一方ではグリージンガーによって、身体学的見地からの精神病研究が強調され、他方、シャルコーが力動心理学の立場から神経症の研究に着手したことは、後来の精神医学に宿命的影響を与えたように思われる。ただ誤解を避けるために付け加えると、グリージンガーは、精神病の原因として、心理要素をも、あわせて重視していた。そしてシャルコーもまた神経症の研究上、素質に注目し、それと同時に生理学的メカニズムを決して忘れなかったのである。

時代の推移と共に、神経症の本質を心理学的要素に求める傾向は強くなり、神経症は漸次、神経病学者の手を離れて、精神医学の中で重視されるようになった。それはともかくとして、精神医学の領域の中にあっても、狭義の精神病の研究と、神経症の研究とは、容易に融合することなく、水質の違った二つの水が一つの川となって流れているような観を呈している。それは、精神病と神経症の本質の違いに由来するものでもあろうが、また両者の研究が違った系譜の上に産声をあげ、一方は身体生理学的研究に重点を置き、他方は精神力動的見地からスタートしたといぅ事実をも見逃すべきではないと思う。近代の精神医学は二つの系譜をもって始まったのである。

内村祐之:精神医学の基本問題1972参照)