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ババンスキーの説得可治症

ババンスキーの説得可治症


ジョゼフ・ジュール・フランソワ・フェリックス・ババンスキー(Joseph Jules François Félix Babinski, 1857 – 1932)

ババンスキーは長くシャルコーの下にあったから、その業績には神経病学的のものが多く、この方面で彼は不朽の業績を遣した。彼の名を冠したバビンスキー反射の発見を始めとして、ことに診断学の上で周到きわまる検索の多くを行なったことによって彼の名は知られている。

彼はまたシャルコーのヒステリーに対する催眠術施行にも参加したから、ヒステリーに対しても深い関心を抱いていた。彼は潔癖すぎるほど良心的であったので、後々まで、シャルコーのヒステリー学説に向けられた非難に対して敏感であり、そのため、ヒステリー患者に対する彼の検索は精細をきわめたという。彼の有名な論文「器質性片麻痺とヒステリー性片麻痺との鑑別診断」を読むと、その細心さと博識とをたやすく読みとることができる。

こうして彼は、シャルコーの死後8年を経た1901年に、ヒステリーについての幾つかの学説を回顧しつつ、新たにpithiatismeる、ヒステリーの概念を提唱した。彼の言葉によると、「ヒステリーとは、自己暗示により、自身を苦悩するものとして反応させるようにする精神状態である。・・・・・第一次障害を特徴付けるものは、暗示によってその障害を詳しく再現させることができることであり、またそれらを説得によって完全に消失させることができることである・・・・・」

彼は、ギリシャ語の「説得」と「治癒」とから、pithiatismeという言葉を作ったが、この造語はヒステリーの精神状態によく適応するから、ヒステリーという言葉に代えてこの名称を用いるのはひとつの進歩であろうという。ちなみに、このpithiatismeの邦語訳は見当たらないが、文字通り「説得可治症」とした。

上述の概念規定からも推察できるように、ババンスキーはヒステリーの症状の病成因として暗示性のみを取り上げて、感動の役割を拒否した。1909年の論文でも、ヒステリーの発作が感動と密接につながるとは思われないと言っている。後年に至っても彼はこの考えを変えていない。暗示によってひき起こされた現象と、感動によって生じた現象とを、疾患学的に同一群に入れて整理しようとすることは、論理的にも不可能ではないかとまで言うのである。

ババンスキーはその師であるシャルコーに深い敬意を抱いていたが、そのヒステリー理論においては師と意見を異にした。シャルコーは、暗示と同じく感動の役割に重きを置いていたからである。シャルコーの伝記を書いたギランは、その中で、1908年にパリで開かれた神経精神学会の席上、ババンスキーの「説得可治症」の学説をめぐる議論の様子を描いているが、みながこの学説に反対の意見であった。

反対の主な理由は、第一に、暗示はヒステリー以外の状態においても同じ作用をするし、小児や精神薄弱者などに対しては、ことさら強く作用する、それにもかかわらず、ヒステリーに対してだけ説得可治症の名を与えるのは適当でない、この名称は、ヒステリー問題に対して何ら新しい考えをもたらすものではないという、第二に、ヒステリー発作は暗示が全くなくとも自然に起こり得るものであり、またその当初に情緒障害があって、その影響の下でヒステリーに特徴的な身体反応の現われることが少なくない、従って感動は、症状の形成にとって非常に重要であって、暗示だけを重視することには賛成しかねるというものであった。

シャルコーのヒステリー理論に対して最も強く反対したベルネームは、ほぼ次のように述べているが、これは当時の最も良識のある意見と言うべきであろう。すなわち、ヒステリー発作は常に恐怖、痛恨、苦痛、怒り、不安等による特別の感動の結果として起こる。これはしかし、日常の感情生活において誰しもが起こす精神力動的反応の誇張されたものであって、それが、程よい強度や持続時間を保つことができず、度を越えるように変わったものであると。

このように、有力な反対論があったにもかかわらず、フランスの多くの神経学者は黙して語らなかつた。これに反し、同じくフランスを中心とする非専門家の医獅の多くが、ババンスキーの権威と声望とのゆえに、またその概念の単純で明瞭であるゆえに、pithiatismeの意見を受け入れたので、1914年、第一次世界大戦が勃発する前までの時期において、pithiatismeの語は、もちろんフランス語圏内だけのことではあろうが、ヒステリーまたは神経症の語に取って代わるほどに普及し、シャルコーによって打ち立てられた臨床的事実すら放棄されかねまじき勢いであったという。

ところが1914年から1918年にわたる第一次世界大戦によって、事情はまた大いに変わった。と言うのは、この大戦中、ヨーロッパ戦線に参珈した兵士の中からは、敵味方を問わず、おびただしい神経症患者が発生して、戦力にも影響するほどとなったので、その処置のために神経病学者と精神医学者とは大きな役割を受持つこととなったからである。これらの神経症は、砲弾の破裂とか死の恐怖とかいう強い感動から起こるものであることが明かであり、その上、現われる症状は、麻痺とか拘攣とか振戦とかいったような、シャルコーによって記載されたヒステリー症状に酷似するものであった。そしてこれらは暗示によって起こるものではなく、また説得によって治癒するようなものでもなかったのである。このような事情であったから、フランスでは、これらの状態を、反射障害とか、機能障害とか、精神神経症とか呼んでいたが、英米軍では通俗的shellshockと呼び、ドイツ軍では戦争ヒステリーと称していたのである。

とにかくこの経験は、ババンスキーの説得可治症理論の再検討を余儀なくさせるものであった。のみならず、この大量神経症に直面して、精神医学や神経病学の先進国である欧米諸国の専門家たちは、期せずして同一の条件による病的状態を観察する機会を持ったので、このことは、神経症学全般について、ことにヒステリーについての考え方を深めるのに大いに役立ったのである。中には神経病学者オッペンハイムのように、神経細胞の分子的振盪というような形態学的変化にヒステリーの原因を求めようとする人もあったが、大部分の者は、それが心因作用であることを確認したのであった。しかもボネファーを始めとする人々によって、ヒステリー症状の発生が、「願望」という内心的欲求と密接に関係していることが指摘されて、近代的解釈に対する理解は大いに深まった。

ババンスキーが神経病学的研究の面で不朽の名を残しているにもかかわらず、彼のpithiatismeの学説が今日あまり顧みられないのはなぜであろうか。それは、彼が真の神経病学者ではあったが精神医学者ではなかったためでもあろうが、その一方、人格の異変を対象とする精神医学が、客観的所見だけでなく、主観的、思弁的要素をも無視することのできない、むずかしい領域であるためでもあったと思う。

内村祐之:精神医学の基本問題1972参照)