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北総メンタルクリニック 院長の情報発信

フロイトの精神医学批判

フロイトの精神医学批判

「・・・・ある人々は私の自己訂正をまったく知らず、すでに私にとって以前とは違う意味をもつようになっている主張を盾にとって、今日でも私を批判しております。・・・・自分の見解を三度三度変更した者は、おおよそ信用することができないというのは、つまり彼が現在主張していることも当然また、まちがっているかも知れないからというわけでしょう。・・・・私は自分のすべての学説を、自分の経験を一歩すすめるたびごとに、どんどん修正することをやめないつもりでおります。しかし基本的な洞察に関しては、私はこれまで何も変更する必要を見出しませんでしたし、今後もその必要はないだろうと思っています」。また「みなさんは、精神分析的な研究に逆らうようなものは、精神医学の仕事の本質の中には何一つないことを承認してくださるでしょう。ですから精神分析に抵抗しているのは精神科医であって、精神医学ではないのです」と言っている。

精神分析と精神医学との関係は、言って見れば組織学と解剖学との関係のようなものです。一方の研究は他方の研究を引き継ぐものであって、この二種の研究の間に矛盾があるとは考えられません。・・・・人間の屍体を解剖して身体の内部構造について知見を求めることが許されなかった時代もあったのです。これと同様に、精神分析を用いて心的生活の内的な仕組みを知ることは、今日きびしく禁じられているように見えます。だが心的生活の深層にある過程、すなわち無意識的過程を十分に知らなくては、科学的に深められた精神医学はあり得ないという洞察が得られる日も遠くはないでしょう」。また「精神分析が、妄想の場合と同じように、ほかのもろもろの神経症精神障害についても無効だとわかったとしても、それはやはり科学的研究のかけがえのない手段として十分に正当性を持ちつづけると思います」とも言っている。フロイトの意向は、以上の言葉のみによっても、ほぼ察せられるであろう。

神経症総論の第二章は「症状の意味」と題されており、フロイト強迫神経症の実例2つを挙げて、その症状生成は必ず患者の性的体験と関係があると説いている。そして、この発見は彼とブロイアーとの共同研究に端を発したものであるが、それとほとんど時を同じくして、ジャネも同じ証明をしたと書いている。

「正直なところ私は長いこと、ジャネが神経症の症状の解明に尽くした功績を高く評価するつもりでいたことを告白いたします。何となれば、彼が神経症の症状を、患者を支配している『無意識の諸観念』の発現として捕えたからです。ところがジャネはその後、控え目になりすぎてしまい、無意識的なものとは、彼にとって一つの言い廻し、一時の便宜的なもの、空辞であるにすぎず、実在のものとは考えなかったと告自するかのような発言をするようになったのです・・・・」。

この章の中の数節を引用すると、強迫神経症とヒステリーこそは、それらの研究によって初めて精神分析が築き上げられたものであり、また治療的にも精神分析的治療が大いに成果を挙げている神経症性疾患の病型なのであります」。また、「おそらく皆さんは私どもの議論に関連して、現代の精神医学者が強迫神経症の諸問題に、いかに対処しているかを、あらかじめ知りたいと思うでしょう。しかし、それはまったく見すばらしいものなのです。精神医学はさまざまな強迫現象に名称をつけますが、それ以上は何も言わないのです。・・・・しかし精神分析によって私どもは、これらの奇妙な強迫症状を永久的に取り除くことができることを経験しました」などなど。

以上の序文的な二章に引き続き、フロイトは、精神分析的に見た神経症の構造を10回に分けて説明する。各章の題目は次のようなものである。「外傷への固着、無意識」、「抵抗と抑圧」「人間の性生活」、「リビドーの発達と性愛の組織」、「発達ど退行の観点、病因論」、「症状形成の経路」、「普通の神経質」、「不安」、「リビドー理論と自己愛」、「感情転移」、そして最後が精神分析療法」である。

内村祐之:精神医学の基本問題1972参照)