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北総メンタルクリニック 院長の情報発信

不安の問題

不安の問題

 

次の章「不安」は、フロイト神経症論、ことに恐怖症にとって重要な問題である。

不安の問題が、あらゆる最も重要な問題の集中する交差点であることは確かです。そしてこの問題は、それを解決すれば、私どもの心的生活全体の上に豊かな光が降り注がれるにちがいないと思われるような、ひとつの謎なのです」。

「不安感情の際、それがどのような早期の印象を、反復の形で再現させているかを、私どもは知っていると思っています。私どもはそれを出生行為だと申します。出生行為の際には、さまざまの不快感、娩出の昂奮、それに身体の異常感覚が生ずるわけですが、これらが生命に対する危険作用の原型となり、それ以来、不安状態として、私どもによって繰り返されるのです」。

「おそらく皆さんは出生行為が不安感情の源泉であり原型であるとの着想に、私がどうして達したのかに関心を持つことでしょう。それには思弁はいささかも関与していなかったのです。私はむしろ民衆の有りのままの考えからそれを借りたのです」。

フロイトは不安の形式を3つに分ける。第一は、一般的に浮動している不安で、それを彼は予期不安または不安な予期と呼んでいる。その昂じたものが、フロイト不安神経症と名付けたものである。不安の第二の形式は、第一のものとは反対に、ある種の対象や状況に結び付いているものであって、恐怖症がそれである。非常に多様であり、奇抜なものも珍しくない。そして第二の形式は、フロイトの理解力をもってしても判らない、特別な対象に対する不安を伴った恐怖症であるという。ところでフロイトはここでも、不安の発生とリビドーとの密接な関係について諄々と説いている。

「・・・・昂奮状態のときにもしばしばリビドーと不安とが混合すること、そして結局リビドーが不安によって代償されることを観察することができます。すべてこのような事実から受ける印象は二重のものであります。第一は、正常な使用を阻止されたリビドーの鬱積であるということであり、第二は、その際すべては全く身体的過程の領域で行なわれるということです。どうしてリビドーから不安が発生するかは、さし当たり明らかではありません。ただ確認されるのは、リビドーがなくなって、その代わりに不安が観察されるということです」。

「・・・・それゆえに、一般に神経症の症状というものは、不可避な不安の発生を避けるだけのために形成されるといっても、抽象的の意味では誤りではないように見えます。この見解によると、不安は、神経症問題に対する私どもの関心の中心点に押し出されて来ることになります」。

「・・・・私どもは抑圧について多くのことを取り上げましたが、その際、常に抑圧される観念の運命だけを追究して来ました。それはただ、この方が認識したり叙述したりするのに容易であったからです。抑圧された観念に付随していた感情がどうなるかを、私どもはいつも顧みないで来ました。そしていま初めて知ることは、この感情が、普通の経過をとる際にどんな性質を示したものであっても、それが不安に転換されるのが、さし当たりの運命であるということです」。

「・・・・抑圧は、危険と感じられたリビドーに対する自我の逃避の試みに相当します。そして恐怖症は、この恐れられたリビドーで代表される外的危険に対抗する築城にたとえることができるのです」。

そしてフロイトはこの不安の章を次の文章で総括する。「・・・・このようにして私どもは、不安の問題が、神経症心理学の諸問題の中で、まさに中心的とも言える位置を占めることを確信しました。私どもは不安の発生が、リビドーの運命と無意識の体制とに、いかに深く結び付いているかを知って、強い印象を受けました。ただ一つだけ、それと結び付かない、私どもの見解の欠陥と感じた点があります。それは、現実不安を自我の自己保存本能の表現と認めざるを得ないという、異論をさしはさみがたい一つの事実です」。

内村祐之:精神医学の基本問題1972参照)