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北総メンタルクリニック 院長の情報発信

自己愛性神経症

自己愛性神経症

フロイトは「リビドー理論と自己愛」で、彼の分析理論を早発性痴呆やパラノイアやメランコリーにまで及ばし、それらの発生を、リビドーの対象が自己に固着して自己愛となった結果として説明しようと試みる。従ってこれらの疾患を、彼は自己愛性神経症の名をもって呼ぶのである。

「私どもは早いころから精神分析の見解を他の疾患の上に拡げることを始めたのでした。すでに1908年に、カール・アブラハムは、私と意見を交換した上で、対象へのリビドー配備の行なわれないことが早発性痴呆の主な特徴であるとの命題を発表しました。ところでその際に起こった疑間は、対象からそらされた患者のリビドーはどうなるかということでした。アブラハムは躊躇することなく、リビドーは自我に向かって戻されるのであって、この反射的反転が早発性痴呆の誇大妄想の源泉なのだと答えたのでした。誇大妄想は常に、恋愛生活によく知られた対象の性愛的過大評価に比較されるものです。そこで初めて私どもは精神病の一特徴を、正常な恋愛生活との関連によって理解できるようになったのです」。

「・・・・対象リビドーを自我リビドーに転換できるという考え方、すなわち自我リビドーを考慮に入れなければならないという考え方は、たとえば早発性痴呆のような、いわゆる自己愛性神経症の謎を解き、これをヒステリーや強迫症と比較して、その異同を説明できる唯一の考え方であるように私どもには思えたがです」。

「・・・・早発性痴呆の患者におけるリビドーの発達は、その弱点を他の段階に持っているのです。症状形成への決定的の個着は、おそらく原始的自己愛の時期にあるのです」。

「・・・・自己愛性神経症にあっては、抵抗は越えがたいものです。私どもは高々、高い壁に好奇の目を投げかけながら、壁の彼方に何が起こっているかと、うかがってみるだけです。それゆえに私どもの技術的方法は、他のものによって補われなければなりませんが、このような補充が成功するかどうかは、まだわかりません」。

フロイトは、分析の経験をもつ者であれば、自己愛への固着ということもわかるはずであるのに、多くの精神科医にはその素養がないと歎き、アメリカでは着々とこのことが進められていると称賛する。そしてメランコリーや躁病に言及して、次のように総括する。

「・・・・その際、私どもの知ることは、メランコリーでも躁病でも、一つの葛藤の特別な仕方による解決にほかならぬことであって、これの諸前提となるものは、他のもろもろの神経症のそれと全く同一のものであるということです」。

「・・・・私どもがこれらの成果を得たのは、すべて自我リビドーまたは自己愛的リビドーの概念をできるだけ利用したおかげであって、私どもはこの概念の助けをかりて、感情転移神経症の場合に確かめられた解釈を、自己愛性神経症にまで拡張したのです」。

「・・・・もし病因的作用の能力が、真にリビドー的欲動の特権であることが明らかにされて、リビドー理論が最も単純な現実神経症から、個人の最も重い精神病的疎隔にいたるまでの、全戦線にわたって勝利を祝うことができたとしても、私は不思議とは思わないでしょう」。

この最後の一節には、フロイトの満々たる自信がうかがわれるように思う。

 

読後の所感の一端

この「精神分析入門」を精読して、私は雄大なロマンを読んでいるような感慨を禁じ得ないのである。これは一人の不世出の人物の築き上げた一大構想である。その中には、フロイト自身も言っているように、未完の点も多くあるし、また私どもにとって何とも「了解」しがたい個所も少なくない。たとえば、不安発生の原因を出生の際の経験に求めるというように、ごくささやかな契機を大きな断定の拠りどころとしている点の多いことである。しかもこのような断定を読者に強要する態度さえ見られる。そして彼は、このような事実は分析に堪能な者には自明のことだが、そうでない人には理解できないといったような口吻を漏らすのである。このような態度は、厳密な科学性という立場に立つ者に対して、立証の普遍性を疑わせることではあるまいか。それはそれとして、フロイトの全構想が一大理論であることはまちがいない。そして私が改めて感じたのは、フロイトが同時に素因― 但しその内容は、多くの医学者の用い慣れている生来性の素質という意味ではない―の語を用い、あるいは系統発生を語るなど、生物学的立場を失っていないということである。

内村祐之:精神医学の基本問題1972参照)