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フーベルトゥス・テレンバッハ

フーベルトゥス・テレンバッハ(Hubertus Tellenbach、1914 - 1994)

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Pinterestより)

 

フーベルトゥス・テレンバッハは、「メランコリー親和型」の学説が、下田光造の躁うつ病病前性格論と多くの点で一致しているためにわが国にいち早く紹介され、ドイツ精神病理学の中では私たちにもっとも身近な人となっている。

彼は1914年ケルンに生まれ、大学で医学を学ぶかたわら、フライブルクハイデッガーについて、ケーニヒスベルクでオットーについて、キールヒルデプラントについて哲学をも学んだ。彼は医学と哲学の両方の学位をもっているが、哲学の学位論文は『若きニーチェの人間像における使命と発展』と題され、1938年に単行本として刊行されている。

戦後はミュンヘン大学の精神科に籍を置き、シュテルツのもとで『末梢神経障害のアレルギー性病因の問題に関して』(1951)という著書によって教授資格を得、1956年にハイデルベルク大学精神科に移って、1958年から1979年まで同大学教授を勤めた。

ミュンヘン時代には主として神経学の研究に従事していたが、ハイデルベルクに移ってからは精神病理学に転向し、「メランコリー者の空間性」に関する2篇の論文(1956)を皮切りに、精力的にメランコリー(単極性内因性うつ病)の研究に従事する。この空間性論文の第1部は、メランコリー性離人症の空間体験の異常を主としてカント哲学に拠って考察したもの、第2部は同じ症状について、今度はハイデッガーの現存在分析論の考えを基にして考察したものである。

彼は「メランコリーの諸形態』(1960)というハイデッガーに捧げられた論文において、ゲーテの描いた『ヴェルテル』像にみられる憂うつと、キェルケゴールが『あれかこれか』の中で論じている憂うつとを比較している。ブェルテルの現存在はロッテとの恋に破れて世界の広がりに向かって開かれる可能性を奪われ、「自らを突破へと向かわせえない」という「囲い込まれた状態」に陥る。この閉塞性・封入性がヴェルテルの憂うつの本質である。これに対してキェルケゴールにおいては、憂うつは罪であり、人はただ自らの負い目によってのみ憂うつに陥る。それは精神の停滞に固有の「自己自身の背後に取り残される」ということに由来する憂うつである。

この両種の憂うつを、テレンバッハはそれぞれ封入性メランコリーおよび負い目性メランコリーと名付けているが、この封入性と負い目性の両概念は、翌年出版された文字通りモニュメンタルな著書『メランコリー』の中で徹底的に精製されて、内因性メランコリーの発病状況としての「インクルデンツ・レマネンツ布置」という構想にまで凝縮されることになる。この『メランコリー』は、1961年に初版が出版された後、1974年にかなり大幅に書き改められ、さらに1976年、新しい知見がいくつか書き加えられた第3版が出た。

 

現代ドイツの精神病理学において、「人間学」を標榜している学者は、いずれも大なり小なリハイデッガーの影響を受けているといってよい。しかし、彼らがハイデッガーを受けとっている受けとりかたは、きわめてさまざまである。たとえば、同じように「現存在分析」の旗印をかかげながら、ハイデッガーの中のいわば「ポスト・フッサール的」ともいえる現象学的・超越論的思索に拠って、「無意識」の力動的・成因論的解釈を避けるビンスヴァンガーやブランケンブルクと、深層心理学的・精神分析的な「無意識」の解釈をハイデッガー的な用語に置きかえようとするボスとでは、その立場はまるで違っている。その意味では、テレンバッハの立場はこの両者のいずれとも異なって、ハイデッガーの中のいわば「生の哲学的」な契機を取り入れたものといえるかもしれない。この点で、彼は、同じように生の哲学」的な立場に立ちながらハイデッガーを高く評価したエルヴイン・シュトラウスやゲープザッルの流れを引いているとみなしてよいだろう。テレンバッハの『メランコリー』はゲ‐プザッテルの時間論・生成論の延長とみなしてよいし、『味と雰囲気』はシュトラウスの感覚論を受け継いでいる。

このようなハイデッガーの受けとりかたの違いは、そのまま、それぞれのレパートリーの違いにも反映している。ビンスヴァンガーやブランケンブルクの「超越論的」現存在分析が精神分裂病を、テレンバッハの「生の哲学的」現存在分析がメランコリーを、そしてボスの「精神分析的」現存在分析が神経症を、それぞれ得意の分野としていることは、いわば当然のことだろう。

自然科学万能の現代にあって、精神医学が全体として客観実証的・数量化的な研究方法へと大きく移動している中で、「人間にとって人間であることはなにを意味するか」の問いをかかげてあくまで経験以前の本質を追求しようとする人間学的・現象学的な研究者は、ますます少数になってきている。現象学の生まれ故郷であるドイツにおいてすら、これを旗印にかかげる精神病理学者は数えるほどしか現存していない。テレンバッハは、分裂病論におけるプランケンブルクと並んで、暮れ行く宵空にひときわ明るく輝く巨星である。

 

木村敏:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)