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アンリ・エーの略歴

アンリ・エー(Henri Ey, 1900-1977)

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(Psydoc-Franceより)

 

略歴

アンリ・エーは、1970年、ボンヌヴァル精神病院医長を退き、それ以後も著作活動の面で意欲的に仕事を続けていたが、1977年11月に没した。彼の理論の評価は今後に待たれる面もあろうが、おそらく彼が文字通り今世紀の精神医学界の巨星のひとりであることは疑いえないであろう。

エーは哲学や文学の好きな青年であったという。しかし家系に医者が多く、彼は1917年、ツールーズで医学を学びはじめる。インターンをするためにパリに出たあと、一方で解剖学や心臓病学に関心をもちながらも、彼は1923年、精神医学を専攻して、パリ大学附属病院(サンタンヌ病院)のクロードの教室で研究のスタートを切る。

エー自身の記述によると、20世紀初頭におけるフランスの精神医学の趨勢は、体質論と機械論であったという。1913年に、レジスとエスナールによってフロイトの著作が紹介されたが、第一次大戦によって中断されてしまった。フロイトの精神力動論がフランスで理解されはじめたのは、1921-22年頃からである。クロードは、当時流行の、クレランボーの機械論的局在論に反対の立場をとっており、若い世代に関心がもたれつつあった精神分析にも門戸を開いたという。

この中にはエーと同世代のラカンやラガーシュがいた。そしてこの当時、『精神医学の進歩』誌のグループが結成され、それが精神分析と精神医学との活発な議論の場となった。

エーによると、1925年当時、精神力動論や心因論、精神分裂病などの概念に関して一種の混乱が生じたが、フランスの大部分の精神科医は、フロイトをはじめとする精神力動論者に反対の立場をとったという。エー自身は、精神分析に多大の関心を抱きながら、自らは教育分析を受けなかった。エーは「(ラカンら同輩が次々と教育分析を受ける中で)誰かが分析に対して冷静な態度を保っていなくてはならないと考えていた」という。つまり、一方で体質論的、機械論的立場に反発を感じていたが、他方で純粋な心因論にも与せず、結局、第3の道を選ぶことになる。それはジャクソンの理論に含まれるものへの着眼であり、ここに彼は、1930年頃までの精神医学の袋小路(と彼は言う)を抜け出す可能性を見出したのであった。以後、彼は器質(あるいは有機)力動論として知られる学説を展開させていくのである。

エーは1933年、ボンヌヴァル精神病院の医長として赴任し、彼が70歳で退官するまでそこで臨床に携わることになる。のちに彼は、週1回、サンタンヌ病院の外来部門で、若い精神科医たちのために患者診察の演習を行い、これも70年まで続けられた。エーが教授職についていないことを考えると、実はこれが直接、肉声を通して、フランスはもとより外国の若い精神科医たちに大きな影響を与えるひとつの場であったといえるであろう。

第二次大戦後、彼はミンコフスキーらとともに『精神医学の進歩』誌の復刊、編集に当り、フランスの精神病理学界に活気を与え続けてきた。

ところでアンリ・エーの所論は、わが国でもかなり早くから紹介され、『意識』、『精神疾患の器質力動論」が訳出された。ドイツ精神医学の伝統を受け継いだわが国の精神医学界にとって、症候論的記述の傾向の強いフランス精神医学の疾病分類そのものがなじみにくいためであろうか、エーの理論を、たとえ批判的な形であるにしろ、われわれの日常の臨床に反映させるような試みはまだ殆んどないようである。

 

 

(長岡興樹:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)