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北総メンタルクリニック 院長の情報発信

ヤスパースの了解心理学

 ヤスパースの了解心理学 

  • 精神病理学において「了解」なる概念は、「説明」が自然科学的客観的因果連関の認識を意味するのに対し、一般的に主観的な意識内の事象を知ることに関して用いられる。
  • その方法には2つが区別され、ひとつはさきの現象学的方法で用いられた静的了解であって、これは意識の諸現象を鮮明に心に描き出し、その特性を記述することによって、それらを整理分類するものであった。他は、発生的了解ないしは心理学的説明または感情移入的了解などといわれるもので、ある心的現象と他の心的現象との関連、動機と行為との関連といった内的関連を明らかにしようとするものである。
  • ヤスパースはこの概念をディルタイから受け容れ、精神病理学の中で方法化したのである。彼は自伝の中で、「ディルタイは『理論的説明心理学』と『記述分析心理学』とを対置した。私はこの後者の課題を自分のものとし、それを『了解心理学』と呼んだ。ずっと以前から行われてはいたがフロイトによって独特な仕方で実際に応用された方法を、なんとか自分で明確に取り出したわけである。この方法によって、直接体験された諸現象とは違って、心理的なものの発生的連関つまり、意味連関ないし動機を理解することができるのである。」
  • この「説明」と「了解」あるいは「因果連関」と「了解連関」の区別は、初期の論理以来その主要関心課題の一つであり、精神分析批判でも重要な論点として強調されている。事象の直接的明証性の体験から発し、理想型的関連に至る「了解」と、事象の因果性の証明によって理論に至る「説明」は相容れないのではなく、現象学的方法が他の客観的方法によって補われるように、この両者も相互に補いあうものである。
  • こうした「了解」と「説明」との関連についてのヤスパースの言葉を、安永は、「いかなる了解も、事実としてあるいは仮設としての説明要素を、明白にあるいは暗々裡に含まざるを得ない」と表現しなおしているが、この方が両者の関連をより明確にあらわしているであろう。
  • 「了解」、「説明」に関連して、ヤスパースフロイトの誤診のひとつとして、まず第一に了解と説明との混同を挙げている。つまり、フロイト精神分析を因果的説明に基づく理論と考えているが、実はそこで行われているのは、心的意味連関を求める了解であり、この了解が、一般には了解を越えた領域である意識外の過程(真の無意識)にまでも及び、安易に多くの「かの如き了解」が行われてしまっていると批判する
  • ヤスパースフロイトの「象徴化」、「抑圧」などの考えは、気づかれていないという意味での無意識の心的関連を了解によって意識にもたらすものとして高く評価している。こうした考え方の相違は、その人間観の表現でもあり、ヤスパースは人間を究極には自由な決断によって自己実現してゆく実存とするのに対し、フロイトはより生物学的立場をとり、人間における欲動(広義における性欲)の力を基礎に置いており、ここから当然人間を対象とする学問へのかかわり方にも差が生じてくるわけである。
  • ヤスパースによる「病的過程」と「人格発展」との区別は周知の通りであるが、前者は了解不能なもの、後者は了解可能なものという区別が時としてクレペリン的な疾病論に立っての鑑別診断にもち込まれ、たとえばある患者の体験内容が了解不能であるということによってこれを背後にある病的過程の症状と判断する、といった具合に、了解性が診断の手段に使われるようなことがある。
  • しかし「了解は了解不能なものの限界に突き当たっても終結することはない、というのは、了解されたもの自体がその運動によってみずからの範囲を変化しつつ拡大するからである」と述べられており、本質上了解が診断の手段にならないということは明かである。つまり了解は病者理解の手段であって、診断の手段ではないのである。
  • ヤスパースは了解に限らず心理学的方法だけによる疾病診断は不可能であると考えている。確かにヤスパースは、「嫉妬妄想」において詳細な症例記述を通して人格発展と病的過程の対比をその妄想形成の了解性から論じている。しかしここで注意しなければならないことは、了解可能、了解不能という標識によって人格発展か病的過程かが「診断」されるのではないということである。そうではなくて、了解の観点から二つの類型を考えることが可能であり、そのことが症例に即して示されているのである。
  • このことは、「こうした概念(人格発展と病的過程)はみな図式的で、探究の結果というよりも、目下のところ行われている前提である・・・・・。素地の発展だけなのか病的過程もあるのかという論争には決着をつけられない」という彼の言葉からもうかがわれる。
  • 流動的な了解可能の限界を、固定的なものと考え、病者の体験世界を了解不能と即断することによって、それへの理解の道を閉ざしてしまうことは、ヤスパースの本意から外れたことといわねばならない。了解可能、不能とそれに対応して考えられた人格発展と病的過程の2類型、これらは「探究の結果というよりも、目下のところ行われている前提である」という彼自身の言葉を忘れてはならない。

 

(宇野昌人:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)