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ツットの了解人間学

了解人間学の緒言

 

「了解人間学」という名称は、ツットの弟子でもあり、優れた共同研究者でもあるクーレンカンプが、他のさまざまな人間学的研究方向、とくにビンスワンガーの現存在分析との混同を避けるため、ツットと自己の研究方向に対して自ら与えたものである。

ツットは、了解人間学は、「精神医学上の経験のひとつの人間学的基礎づけの試み」と註釈しているように、理論的考察として出発したものではなく、また台頭してきていた精神科学方面での人間学的研究法に刺激されて着想したものでもなく、長年の間、日々の診療で出会うさまざまな人々を了解しようと努めてきた結果なのである。すなわち、ここで出会う人々の示す態度や語る体験の異常さを、ただ医学的症状とだけ受け取って、記載し診断を付けるのではなく、これを了解しようとしたのである。つまり、異常さをすべて障害として了解し、その上で、その異常を通じて障害されていなかった本来のもの、変化する以前の健常であったものを洞見する、ということである。

このように、この現象の中に自らを示すものを通してその人間学的基盤を洞見する、この洞見が了解人間学の「了解」である。こうして根源的現象が医学的症状へと還元され、それが止揚される。現象はその全ての意味内容において示される。この時、精神病でないものとの交流では隠されているものが見えてきて、結果として、精神医学におけるこのような努力が人間全般を学ぶこととなるのである。これが「人間学」と名付ける所以である。

了解人間学は、病む人を前にして、状態像を云々したり、その状態像は何病であるかなどを論ずるだけではなく、この人間は、一体どうしたのか、どういうことになってきたのか、何をしたのか、何が起きたのか、を問う。そしてそれらの答えからさらに、このひとりの人間の個人的な運命とその類型的な精神障害との関連の仕方が洞察できるかどうか、を問う。ツットは、これに答えることこそが、その都度の精神病的変化の人間学的意味を了解するための前提だからである、という。

ここでもう一つの前提は、人間学は心理学ではなく、了解人間学はデカルト心身二元論をとらない。ツットは、「精神」と「肉体」は同じものの二つの見方にすぎないとし、この「心-身-統一体」を人間の根源的現象としての「身体」ととらえる。これは抽象的思考の産物ではなく、もっとも日常的なことがらから看取できるものである。

ツットは、例として、自分がここに坐って書きものをしているところへ友人が入ってくる、という場面をあげる。私に入ってくるのが見えるのは、決して「肉体的随伴諸現象」ではなく、ひとりの私の友人なのである。この、私に対して現象している身体が私の友人であることは、根源的、直観的かつ現象的に与えられているのであって、精神や肉体というものが、逆にこの根源的、現象的所与の抽象の結果なのである。ツットは了解人間学は、この、自分がここに坐っている、そこへ入って来るのは友人であるという、きわめて単純明快な日常的ことがらをこそ出発点とするのであると強調している。

 

山本巌夫:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)

ユルク・ツットの経歴

ユルク・ツット(Jürg Zutt, 1893-1980)

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(SBPFEより)

 

経歴

ユルク・ツットは、1893年ドイツ、パーデン地方のカルルスルーエに、同地の高裁の弁護士を父として生まれたが、早くに両親を喪った。1911年フライブルク大学の医学部に入ったが、1914年第一次世界大戦勃発と共に砲兵隊員として召集され、終戦まで学業は中断された。1918年に復員し、再びフライブルタヘ戻り、1921年医師資格を得た。

当時のフライブルク大学精神医学の主任教授はホッヘであったが、その頃フロイトおよび他の精神分析の著書に興味を惹かれ、さらに深く学んでみたいと考え、フロイトに直接手紙を送った。これに対してフロイトは、当時ベルリンの精神分析協会会長であった、カルル・アープラハムの許を訪ねるよう勧める返事をくれた。

指示通リベルリンヘ赴いたツットを、アープラハムは快く協会へ迎え入れてくれるとともに、「もし精神分析に関心を持っているなら」、ポネファーを訪れ、彼の教室に入れてもらうよう頼んでみることを勧めた。

そこでベルリン大学の精神医学教室を訪れてみると、ポネファーも精神分析に関心の深いものの入局を大いに歓迎してくれ、結局、1937年ボネファーが退職するまで彼の許に留ることとなる。そこでツットは、ベルリン精神分析協会で客員会員として、正式の教育分析および実地の分析治療の訓練を受けるとともに、ボネファーの下でいわば伝統的なドイツ精神医学を学ぶことになった。

1922年末から2年間、チューリヒのオイゲン・プロイラーの許に留学後、再びベルリンヘ戻ったツットは、理論だけの独断論的な狭さやその精神医学の無視ぶりが納得できず、精神分析協会から疎遠になり始める。その頃のベルリン大学の精神医学教室はきわめて自由な雰囲気で、脳病理から精神病理学的症候学、精神分析、グシュタルト心理学、さらには哲学的境界問題まで論じていたという。

1929年には、後に「了解人間学」の体系を築き上げるであろう方向を示唆する、初めての本格的論文「内的態度」を発表した。すなわち、分裂病の症状を個々に記載羅列するのではなく、その現われの中に潜む根源的なものを見取っていくと、自我と内的態度との関連に障害のあることが明らかとなり、そこから、一見無関係に見える諸症状も根底において互いに関連し合っていることが分明になるであろうこと、を論じたものである。こうして1932年には教授資格を得、彼の研究はようやく独自の方向へと進み始めた。

しかし同年春、病院にもハーケンクロイツの旗が掲げられるようになり、暗い日々が訪れ始めた。5月にはフロイトの著書は焚書に付され、11月にはベルリン精神分析研究所も、所長ジンメルは投獄され、多くの所員が亡命し、事実上閉鎖となった。当時ベルリン大の助教授であったシュトラウスも同年その職を退くこととなった。因みに彼はユダヤ迫害の激しくなった1928年故国ドイツを永久に離れた。

こうした情況の中でツットは、その後、教職に留まるために賦せられてくる政治的条件を受け容れることを潔しとせず、1937年ポネファーが退官したのを機に、十数年にわたって在職した大学を去り、敗戦に至るまでペルリンの一私立病院長としてすごした。

敗戦の後、1945年大学へ戻ったツットは、ヴュルツプルグ大学の精神医学教室の主任教授となり、活発な研究活動を再開した。1948年には「思春期痩せ症の精神医学的病像」を発表、1950年フランクフルト・アム・マイン大学に移って以後、1952年の「審美的体験領域とその病的変化」の研究を皮切りに、次々と独自な研究を発表、1957年義息クーレンカムプの提唱に基づいて、その研究方向を「了解人間学」と名付け、その後もその体系を固めた。これらは、その他の論文も含め1963年、論文集『一人間学的精神医学への道』としてまとめられた。1965年フランクフルトで現職を退き、同大の名誉教授となったが、その後も数年の間は自宅で外来診療を続け、常に患者のよき相談相手として患者との接触を保ちながら、依然盛んな研究、著述を発表し続けた。

 

 

山本巌夫:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)

サリヴァンのパーソナリティ論

サリヴァンのパーソナリティ理論

  • サリヴァンは、人間の発達を衝動の形成過程としてではなく、対人関係の場における経験が決定する過程としてとらえた。彼の「精神医学における対人関係論」には、彼の発達論が次の七段階に分けて述べられている。
  • ①幼児期、②児童期、③少年少女期、④前青年期、⑤青年期前期、⑥青年期後期、⑦成熟期
  • 人間の活動には、2つの基本的欲求が要請される。
    • 身体的満足を要求する欲求
      • 乳児は出生時、何の不安もない状態にあるが、やがて睡眠、食欲、思春期以後の性欲など、生物学的なレベルのさまざまな欲求が生じ、それを満たすために筋肉の緊張が生じ、欲求が満足されると筋肉の弛緩が生じる。
    • 心理的安定の欲求
      • 乳児は次第に漠然と、他人の態度の中に自分を緊張させる要素があることを感じはじめる。こうして生じる心理的安定への欲求は、本質的に対人関係の中に存在し、人間の文化的環境と密接な関係をもつ。
    • このような満足(身体的)と安定(心理的)への要求を満たすために、乳幼児はすでに早くから大人の気分に、実に敏感に反応せざるをえない。これをサリヴァンempathy(共感、感情移入)と呼び重視した。
    • 幼児はempathyによって、母の喜怒哀楽、不安、賞賛、是認、危惧、否認を自覚し、母の否認や危避が子供に不安を生む。
    • サリヴァンにとって不安はその理論の中核的意義であり、とくに幼児期において大人たちとの交渉のうちに源を発するとするところに大きな特色がある。
    • 乳幼児にとって、母親との間に生じた軽度な不安は人間の社会的自我の発展に積極的な役割を果しうるが、強い不安は自我の形成に有害である。
    • 幼児期の対人関係において生じる不安をどのようにして避け、心理的安定を持続して獲得するかが、最も重要な課題となる。個体として不安から常に自由であり、安全を確保し、緊張から解放されようとするところからセルフ・システム(self-system)が生じる。
    • セルフ・システムとは意識可能、自己省察可能なパーソナリティの部分であり、子供が大人たちによって是認されたり否認されたりする経験は、子供に分別らしいものが生じるよりはるかに以前から生じており、この思考力や弁別能力のない時代にでき上がった形式がずっと潜在的に維持されて、最も深い所で広範にその人間に影響を与え続ける。人間は長い年月をかけてセルフを構成化し、システム化し、あらゆる犠牲をはらってその総合度、形式、方向を維持しようとする。
    • セルフ・システムの形式に関連してgood-me、bad-me、not-meの区別がある。幼児期のempathyによって子供の側に2つの相反する状態が生まれる。安心と不安、弛緩と緊張、快と不快である。前者を生じる時の母親は、子供によってgood-motherとして体験され、後者を生じる時のそれはbad-motherとされ、それに応じてセルフ・システムの方もgood-me、bad-meに分かれる。幼児期に成人からあまりにもひどい取り扱いを受けたり、非難を受けたりした時は、セルフ・システムはその体験を加工しえず、not-meとしてそのシステムの外にとどめる。やがて言語と象徴が理解できるようになるにつれ、good-meとbad-meが統合されてmeが生じてくるが、not-meはセルフ・システムの中に取り入れられず、「パーソナリティの残余部分」になる。
    • 言語象徴の形成は、人間の体験形式に決定的な変革をもたらすものとして、サリヴァンは発達段階に応じ、体験の質の変遷を以下の3つに区分した。
      • プロトタクシック(Prototaxic)
        • 最も分化度の低い様式で、幼児と重篤な精神病の一部に認められ、自己と外界を区別できず、学習とか見通しは不可能であり、単に身体の状態が全般として知覚されるだけである。
      • パラタクシック(Parataxic)
        • 言語を通じて象徴が形成され、学習と予想が可能になる。この段階の象徴は、自閉的で、外界の諸事物の関係は、因果法則ではなく、主観と感情により決定される。病的な場合だけでなく、成人の一般的な体験の中にも、時としてこの様式が出現して、その人を支配して神経症的な態度を形成する。
      • シンタクシック(Syntaxic)
        • 象徴や言語や事物間の関係づけの仕方は自閉的な枠組みをこえて、伝達可能になる。これらの心的機能が自分にも他人にも同様の意味を持ちうるようになり、ことの真偽を確かめるのに他人とのコンセンサスを目的とするようになる。
        • 選択的非注意:目的追求時、不必要な要素が意識下に侵入することを排除しようとする機制。
        • 解離:セルフ・システムの不断の排除的な働きによって意識外に常に保持される作用。フロイトの抑圧にあたる。解離された印象は、せいぜい悪夢として意識にのぼるしかなく、何らかの理由でセルフ・システムの崩壊した時にのみ多彩に意識されることになる。
      • 睡眠の機能
        • たとえば、強迫神経症者の睡眠は、通常大変よいもので、それは強迫神経症者のダイナミズムが安定していて、不眠をもたらすような破綻を通常示さない。強迫神経症者に睡眠障害が表われた時には、ある種の危険のせまったサインと考える。
      • 少年少女期にみられる友人関係の様式は「自分の欲する所を得るために、自分は相手に何をなすべきか」を問題にする態度(co-operation)であるのに対し、前青年期は、相手に気を配る関係で「私の友人への幸福と名誉のために私に何が出来るか」が問題になる対人関係(collaboration)になる。
      • サリヴァンは多くの分裂病者との観察から、少なくとも男子の破瓜病児は、その前青年期にこの種の親友関係を形成できなかった人が多く、もしそうでなかったら障害を引き起こしたであろう人が、この時期に良い関係を友人との間に形成しえたために救われたと思われる場合が多々あることを強調した。
      • 少年少女期に種々の困難(孤立、成熟、拒否等)があっても、その多くは、前青年期に新しいタイプの親密さが成立し、親友の目を通して自分自身をみることが可能になり、自己評価が上昇すれば、ほとんど問題にならない程度にまで弱まってしまう。
      • パーソナリティの発展に影響を与えるのは、同年輩の友人と関係をつくれず、より年少の者と関係をつくる場合で、これはそれほど悲劇的な状況をつくることはないが、すでに青年期にある年長の者と親友関係をつくる場合は、同性愛的か、少なくとも両性的傾向が生じ、その段階以上に進むことができなくなることがあるという。
      • 前青年期から青年前期への移行は、同性から異性の友人へ対象を移す時期に生じる困難である。親密であった親友が、スムースに青春期に移行し、自分はなお前青年期に留まらざるをえぬといったような場合(これは、後年分裂性障害を含む人に多い)また、異性の接近が、年少あるいは年長のそれにしか向かわない場合など、親密な同性関係の終焉に際して、ひとつの危機を経験することが少なくない。
      • この青年期への移行は、個人差が著しく、少なくとも3~4年という時差が生じる。青年期への移行が最も早いものと遅いものとの間で、これほどの時間差が生じるところに現代青年期が大きなストレスを持つ時代である。
      • 前青年期前後は、従来の力動理論からすると潜伏期とみなされ、あまり重視されなかった時期であるが、この時期を生活史上のひとつのポイントとして重視するべきである。分裂病者の中には、この時期の親友に裏切られたという体験を妄想的にしろ、もち続けている人が意外に多いし、対人恐怖症者の中には、この時期から異性の現われる青年期への飛躍を、親友関係の破綻の結果、失敗している人が少なくない。前青年期への関心の促しは、臨床家にとって刺激的である。とくに分裂病者の発病の契機が前青年期から青年期への移行に際して、異性への接近の時生じる場合が相当みられることを、サリヴァンは指摘している。

(文中の精神分裂病は、現在の統合失調症

 

(坂本健二:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)

サリヴァンの経歴

サリヴァンの経歴

  • サリヴァンは1892年、ニューヨーク州中央部のノーヴィッチに生まれている。
  • 1911年シカゴ大学医学部を卒業後、シカゴのある分析医から、教育分析を受けたといわれている。
  • 1922年、首都ワシントンにきて、ホワイト、マイヤーらの影響を受け精神分析研究に傾倒し、クララ・トンプソンと出会い、彼女から教育分析を受けたともいわれる。彼女との友情は終生続いた。
  • 1923年、プラット病院に移り、以後10年間入院中の分裂病者に対する積極的な精神療法的接近が試みられた。それまで神経症者に対するものであったフロイト精神分析の手法に、種々の修正を試みつつ、独創的な方法を講じていった。
  • 1924年頃から早くもこの病院での経験を学会に発表しはじめ、まもなく名声を知られるに至った。サリヴァンの実験ともいえる小グループのシチュエーショナルな治療方法には、文化人類学者達にも関心を寄せられた。
  • 1930年、ニューヨークのパーク・アヴェニューで開業した。これには2つの理由があり、分裂病の解明のためには強迫神経症の研究が不可欠であると考えるようになったからである。彼によれば、強迫症者とは前青年期において、分裂病の発病の危機をたまたま免れた人であり、かつ今日の文化に遍在的な分裂症発病の危険に対処するだけの防衛機構をすでに身につけている人なのであった。もうひとつの理由は、サフィア等、文化人類学者との交流を一層密にするためであったらしい。
  • 1934年事実、ウィリアム・アランソン・ホフイト精神医学財団が形成せられ、1938には、雑誌「Psychiatry」が刊行されその編集に参画し、そして彼が主宰者的立場に立つようになるのである。
  • 1943年にはフロムやトンプソンと共に、ウィリアム・アランソン・ホワイト精神分析研究所を作っている。
  • 1939年のホワイト財団記念講演でのConception of Modern Psychiatryが翌1940年に刊行され、これが彼の生存中の唯一の書物として残ることになった。
  • 1942年から1946年にかけての4年間は、チェストナット・ロッジ病院で専門家対象の講義と討論が精力的に行われた。これらの講義は、彼の死後弟子たちによって『対人関係の精神医学』『精神医学の面接』『精神医学における臨床研究』の3著が観光された。
  • 晩年のサリヴァンは、コミュニケーション論への関心を次第に大きな集団にまで及ぼし、ついに国家間の諸問題にまで至った。戦後、ユネスコで活躍するようになったのもそのためである。1947年、彼は56歳でユネスコの国際会議に出席のため、パリに滞在中客死した。

 

(坂本健二:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)

 

サリヴァンの精神医学への貢献

ハリー・S・サリヴァン(Harry Stack Sullivan, 1892 - 1949)

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(Babelioより) 

精神医学への貢献

  • サリヴァンは、米国の精神医学史上最大の偉人であって、これに比肩しうるのは、マイヤーのみである。
  • 彼の精神医学に対する貢献は、文化人類学および社会学等の学際的問題を包括した、「対人関係の学」として精神医学を規定したことにその意義がある。
  • 米国では1920年代から30年代にかけて、在来の正統派精神分析の理論と技法に疑間を持つ「ネオ・フロイディアン」の出現があり、正統派のリビドー派とか汎性性欲法に疑間を抱き、「非リビドー派」と言われ、社会や文化の影響を重視し、比較文化論的考察の重要性を強調したため「文化学派」とも呼ばれる。
  • この文化学派には、フロム、ホーナイ、フロム=ライヒマン等がいるが、このグループの理論的中心はサリヴァンであった。
  • 彼の学説の核心は人間の不安の問題が中心となっている。つまり人間の第一動因として、自我組織の建設者として、人生の教師として、また精神障害の原因として不安をとらえたのである。
  • サリヴァン自身は、分裂病患者や強迫神経症など外来患者についての臨床経験から、人間のパーソナリティ、あるいは精神的・感情的経験はその人間の対人関係の観点からのみ理解しうるという。
  • 精神医学とは、精神科医が観察しつつ、かつ同時に、そこに関与せざるをえないような出来事と過程に関する広範な科学である。精神障害とは、対人関係においてはじめて明らかになりうる種類の障害であり、かつ人生の早い時期の、やはり対人関係の経験に発する障害なのであり、したがってその治療もまた、治療者と患者との間に展開される対人関係においてしか、本来的には可能でないと考えたのであった。
  • サリヴァンは精神医学を人間間のコミュニケーションの学と考え、精神障害の大部分は互いのコミュニケーションが「不安」によって妨げられ、不適切となり、しかもそれが永続化することに由来している、そしてまた、2人の人間の関係はその構成員がどのようであれ、対人関係のフィールドの一部として組み込まれており、決して独立の単体ではありえない。
  • 彼は、心的機構を単純に機械的な、または固定的にみることを極度に嫌い、メカニズムという表現を拒否してダイナミズムという名称を与えた。ダイナミズムとは、「比較的持続的なエネルギーの状態であって、それ自身は対人状況のその場その場において特徴的な形で示されるもの」である。すなわち、機械的、規則的、均等性をもった過程が問題なのではなく、精神的な緊張力とその拡がりによって自由に躍動する心理的空間が重要なのである。
  • 対人関係のフィールドは、人間の各々が持つ一連のダイナミズム同志の間の交互作用から成り立ち、双方のダイナミズム同志の間に、その時々によって、持続可能な関係や背理的な関係が生ずる。前者は、互いに「親密への欲求」を持ちあわせている時であり、後者は、共に不安を含んだダイナミズムを持ちあわせている時である。
  • アメリカの理論精神医学は、その大きな部分を彼の思考に負うとさえいわれている。

 

(坂本健二:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)

 

クレッチマーの体格と性格

クレッチマーの体格と性格

 

  • クレッチマーは内因性精神病者の体格研究を試みた。躁うつ病者は平均以上に多くの人が肥満型体格を、一方精神分裂病ではしばしば無力性の細長型体格または発育不全型体格を見出した。
  • 1361例の躁うつ病
    • 肥満型64.6%、細長型19.2%、闘士型6.7%、発育不全型1.1、特色のないもの8.4%。
  • 5233例の精神分裂病
    • 肥満型13.7%、細長型50.3%、闘士型16.9%、発育不全型10.5%、特色のないもの8.6%。
  • 健康な肥満型者
    • 94.4%が循環気質、2.8%が分裂気質
  • 健康な細長型者
    • 12.2%が循環気質、17.1%が混合型あるいは不定、70.7%が分裂気質。

 

健康と疾患との間を流動している異常人格の学説

  • 循環病質性気質
    • 人付き合いが良く、善良で、親切で、温みがある。
    • 爽快で、ユーモアがあり、陽気で性急。
    • 落ち着いていて、冷静で、事を重大視し、情深い。
  • 分裂病質性気質
    • 非社交的で落ち着いており、控え目で真面日な(ユーモアのない)変人。
    • 内気で臆病であるが、如才がなく、感傷的で敏感、神経質、興奮しやすい。自然愛好家、読書家。
    • 従順で気立てが良く、正直、無関心、鈍感で無知の人。
  • 闘士型体格者と粘着気質『闘士型体格者の人格』(1936)
    • 気分は爆発と強靭(粘着)との間を動く。
    • 精神テンポは粘着性気質曲線が特徴である。
    • 精神運動は刺激相応で、遅く、適度で、鈍重でどっしりしている。

 

  • クレッチマーの気質論の重要な核心は両極構造で両者の間を動揺する

    • 循環気質→爽快と悲哀

    • 分裂気質→敏感と鈍感

    • 粘着気質→爆発と強靭

精神分裂病は現在の統合失調症

 

 

(切替辰哉:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)

クレッチマーの敏感関係妄想

クレッチマーの敏感関係妄想

 

  • 『敏感関係妄想』の精神医学における位置づけについては、日本語翻訳版のために書かれた原著者の序に適切に述べられている。
  • 「・・・明瞭に区分された「疾患単位」をもととするクレペリンの思考図式に反対して、この書は、「多次元診断」すなわちある病像をそれに含まれる全因果因子に分析するという研究方法を創始したのである。とりわけこの書は、妄想疾患というものは不治であるという諦め的な考えを、はじめて系統立てて破ったのであった。・・・系統的に練りあげられた方法によって、多くの症例をよりどころにし、多年にわたる経過確認にもとづき、ある種の妄想病患者は精神療法によって治癒することを示した。そのための前提としては、もちろんまず人格の構造分析を行わねばならない。性格、環境、体験の相互作用の形で、病像の成立に関与した因子を広くときほぐして綿密にとり出し、内因的準備性と同様、外部から働きかける精神外傷に顧慮を払いつつ分析をすすめ、ついに衝動構造と倫理的人格との間に生ずる中心的葛藤に及んでゆくのである。・・・この道が、パラノイア分裂病の領域における診断学と精神療法をおしすすめ、また分化した神経症研究の方向への進歩をもたらすことができるよう願っている。」

 

  • クレッチマーは、敏感関係妄想によって精神医学に性格学―精神医学的性格学―を導入した。
  • 敏感関係妄想の基礎となる性格は敏感性性格である。敏感性とは、一面で並はずれての情性の柔らかさ、弱さ、繊細と傷つき易さ(無力性特性)を示しているかと思うと、他面では自意識に満ちた野心我意(強力性特性)を示す性格である。
  • 病因となる第一次体験として恥ずべき不完全さの体験、倫理的敗北の体験があり、これら純心理的要因のはかに遺伝負荷と疲億などの生物的要因が加えられている。また環境作用はしばしば重要な共同決定力を有している。結局、性格と体験と環境の心理的相互作用が敏感関係妄想の本質的病因をなしている。
  • ある体験や環境の反応としてある妄想が形成されるとき、内因性であり、しかも心理反応的力動の中に妄想発生の唯一つの了解可能性を見出している。これは内因性という仮説と心理了解との間の分野を解明する試みである。

(切替辰哉:現代精神病理学のエッセンス-フロイト以後の代表的精神病理学者の人と業績-参照)