サルペトリエール学派とナンシー学派の催眠
- サルペトリエール学派の催眠
シャルコーが率いるサルペトリエール学派の催眠法は、「大量刺激法」と呼ばれる過度の刺激を患者に与え、そのショックで催眠状態に誘導しようとするものである。例えば、中国のドラやアフリカのトムトム太鼓を打ち鳴らしたり、大きな音叉を耳元で響かせたり、太陽灯を目に当てたり、身体のいろいろな部分を圧迫したりして、その刺激でヒステリー女性に全身けいれんを起こさせるものであった(Biner & Fere, 1888)。 - ナンシー学派の催眠
アンブロワーズ-オーギュスト・リエボー
フランスのナンシーで、リエボーが2年間催眠療法を実践し、この現象について動物磁気説を否定して、心理学的なものであると考え、「睡眠とその関連領域についてー心が体に及ぼす影響」という著書を出版したが、ほとんど反響はなかった。
(Ambroise-Auguste Liebeault、1823-1904)
ヒポライト・ベルネーム(Hippolyte Bernheim、1840-1919)
その後20年ほど経過し、ナンシー大学の神経学教授のベルネームがその業績をたまたま発見して、交流が始まり、1886年「暗示とその治療への適応」を出版して、リエボーの業績を紹介した。2人はナンシー学派として暗示の概念と催眠が心理学的現象であると主張した。 - シャルコーが、催眠現象はヒステリー患者に限るとして、ナンシー学派と対立したが、実験の結果、ナンシー学派の正当性が認められ、20世紀の最も成熟した催眠療法のモデルとされた。しかし、その催眠療法は、人間関係の配慮に乏しく、暗示は権威的な声で「眠れ」という言葉を繰り返すものであった。また、覚醒法もきわめて短い時間で行われたために、残遺症状を残すことが多かった。そのためベルネームの弟子達は、パリからの知的な患者は、この方法に疑惑と恐怖心を持っていると言って、催眠に背を向け、それぞれ独自の道を歩んだ。
(高石昇、大谷彰:現代催眠原論、金剛出版、2015.参照)